パレスティナ日記 2月14日 水曜日

今日はバレンタインズデイ。
昨年の今日も私は日本に出発し大変貴重な体験、出会いが有った。
生田流地歌筝曲演奏家奥田雅楽之一氏との出会い
そうして京王プラザホテルでの8回のロビーコンサート。
今でも思い出すととても心が温まる。
今年は同じ日にドレスデンから
何と紛争地域でもあるイスラエルはパレスチナに出発した。
なんとも凄い違いである。
ドレスデンよりフランクフルト、
フランクフルトよりテルアヴィヴという空港へ。
入国審査で案の定2時間かかった。
質問は以下のとおりである。
入国の理由、住居の住所、入国の期間、
この3つが最初の質問で、
別室に呼ばれ同じ質問を受けてそのほかに両親の名前、
祖父母の名前、今のキャリア、イスラエルに付いての知識、
宗教に付いての知識これが別室での質問だった。
宗教について、イスラエルの情勢については3冊の本を読んだし、
新聞をよく読んでいたためすらすら話せて15分ほどで終了。
その後が大変だった。
自分が生まれてからの生い立ちを淡々と聞かれた。
生まれた場所、いつから英語を話せたのか、
英語を勉強するのは何の為か、
今までボランティアはしたのか、
なぜ音楽なのか、なぜヴァイオリンなのか、
アメリカに行った理由は、
アメリカに行ってよかったこと、悪かった事、
その後なぜ日本に戻ったのか、
ドイツに行った理由は、その時に出会った人の事、
ドレスデンでの生活、ヨーロッパでの生活、
何を学び、何を生かせているか、
それだけ色々しているのに、
なぜイスラエルなのか、なぜパレスティナなのか、
1ヶ月の理由は、また戻ってくる可能性はあるのか、
そこまで自分を動かした理由は、
個人で来たのか、何か共同体に入っているのではないか・・・
と大体の質問がこの様な物で
僕は淡々と的確な英語で答えていく。
質問をしてくれた方はとても良い姿勢で聞いてくれた、
あらゆることを聞きその人の意思を確認し、
私の代わりに受け入れ先をきちんと調べ
それがあいまいだと受け入れ先に私を受け渡さない、
と言う事だったらしい。
質問をされている時は「早く行かせてくれ」と思ったが
そう言う理由を知ってこれは必要だったんだと感謝さえ出来た。
でもえらく長く待たされその時はとっても心細かった。
さすがに帰りたかった。
迎えに来てくれた学校の関係者2人は本当に人の良さそうな人だ。
それでもアメリカで鍛えられた様に
そう簡単に自分を開かなかったが、
車の中で自分達の歴史、
目の前にそびえる壁の理由、
自分は両親と切り離されているという現実、
戦争と共に育ったこと、
だから僕らはこの国を愛しているし、
外から来た人にもこの国を好きになって欲しい、
それから「僕らは人を愛しているし、良い人間である」という事。
それをしっかり目を見ながら話してくれた。
こういう人ばかりじゃないのも良く解っているけれど、
でも心から感銘を受けた。
私達は本当に恵まれている環境の中で育っているな、と実感した。
でもそれは物に恵まれているだけなのかもしれない。
今の日本人の中に
それだけ強く自分の国を愛していると言える人が居るだろうか。
早くも1日目にしてショックを受けつつも多くの事を感じ、
素晴らしい国だ、と思った。
明日からレッスンが始まる。
心から音楽を。


パレスティナ日記 2月15日 木曜日

今日は朝10時から
金管楽器講師のルームメトに学校に連れて行ってもらい練習を始めた。
久しぶりに楽器を弾くような、
また楽器が弾けて良かったというか、
移動が一番危険だという事を聞いていたので
無事に学校の地区まで着いたので良かったなと改めて実感。
今回の下宿先の裏にはジュイッシュ地区があり凄く立派な建物がある。
The Edward Said National Conservatory of Music
これが私が客員教授を勤める学校名である。
学校自体はパレスティナ女子学校の建物の中の3階に位置する。
元はホテルだった建物で
戦争中にジュウイッシュにそのホテルであった権利を没収されたという。
ホテルだったらとても綺麗だろうなという感じだ。
本当にそういう意味でもこの学校で働いている職員、
教授陣達もジュウイッシュ達には認められていないと言う。
イスラムとジュウイッシュの沸々とした戦いは
こういう所でも見えてくる。
この学校の教授陣の中には
アメリカ、ロシア、ベルギー、イギリス、イタリア、スペイン、フランスと
それから地元のアラブ人と色々な国の人々が教えている。
地元人以外は3ヶ月に1度はイスラエルから出ないといけないと言う。
立場の保障がされていないからだ。
それでも教授陣達は自分達の仕事に誇りを持ち
一生懸命生徒達と接して問題を解決している。
演奏旅行に行きたいが
演奏旅行に行く旅費を出す事が出来ないと相談に来る生徒に対して
教授陣達が少しずつ出し合っている、
そう言う姿は初めてみたが
とても心が温まったと同時に
こうして諦めなければいけない子供達も居るのだと感じたら切なくなった。
世界中の中にはこう言う音楽教育を受けられない、
楽器さえ持つ事が出来ない子供達も居る・・・と、
ある教授から教えられ
今出来ているのだから私達は必死に子供達と接したい、
と話してくれた。
練習の後初めての指導に当たった。
男の子でヴァイオリンは好きかという質問に
凄く素敵な笑顔で『もちろん』と続けてくれた。
その子は初めて1年目だったがしっかり弾いてくれた、
問題は山済みだったし練習もなかなかしないであろう・・・
でも私には凄く救いに感じた。
この子にとってヴァイオリンはかけがえの無い休息であり
色々な苦悩から放たれている瞬間なのだと感じた。
沢山の笑顔をくれた、凄く心がきれいになる気がした。
それから次はヴィオラの生徒。
この子は空手をやっているらしい、
その体格もとっても良くて
ヴィオラの音もしっかりしていてがっちり弾く。
繊細と言う言葉は彼には無い。
3曲のレッスンをした。
それから9歳の女の子。
ヴァイオリンを一生懸命演奏してくれた。
この3人に共通しているのは
「ヴァイオリン、ヴィオラが大好き」という事。
こんな事当たり前なのだが
今まで日本で教えたり色々優秀な生徒達を見てきたが
そういう目をした子供に会ったのは久しぶりに感じた。
明日はオーケストラの指導が待っている。
朝10時からだ。
そうしてその後はきっと又個人の指導が始まる。
今日の生徒の反応を見て
校長をはじめ弦楽器主任から個人指導も頼まれた。
僕が担当するのは中級から上級者。
それから室内楽の授業、
そうしてオーケストラトレーニング・・・と
この1ヶ月にコンサートはオーケストラのも合わせて4つもある。
大変な事になりそうだ。
でもウキウキする!


パレスティナ日記 2月16日 金曜日

今日は朝から街がとてもにぎやかだった。
でも昨日のヴァイオリンの同僚から教わっていた通り
軍隊が出ていたし銃声が聞こえたり、
人も何だか落ち着かない状態だった。
朝は人々が言い争いをしている光景を目にしながら歩いて学校へ。
少し迷いそうになったが何とか学校まで辿り着いた。
今日は朝から学校で
初心者オーケストラのためのリハーサルが始まった。
教える事は座り方、譜面台の位置、指揮者の見方、
何故指揮者が居るのか、
一番前に座っている人と一番後ろの人の意味、などなど。
本当にここから教えるのだと言う事。
びっくりした。
そこまで西洋音楽の文化が無いんだと言う事に気づかされた。
でも子供達は嬉しそうだった。
皆で一緒に演奏すると言う事の素晴らしさ、楽しさ、
それから責任感が伝わったのではないかと思う。
それから今日は沢山の先生方に出会った。
クラリネットの先生、コントラバスの先生、民族音楽科の先生、
それから違うスタッフの方々。
クラリネットの先生は
ロンドンで勉強してスペインで演奏していた方だ。
それからコントラバスの先生はフランス人。
彼はジャズも演奏するらしく、
なんとも言えない風貌で本当にフランス人と言う感じだ。
皆私に『この学校の印象』『それから生徒の可能性』を聞いてくる。
私はまだ2日しかここに来ていないのでなんとも言えないが
この子達に可能性を造るのも可能性を失わせるのも我々次第だと続けた。
学校の印象は
私はまだ今行っている学校1校しか知らないが
私が今の時点で感じる事は
施設的には今の生徒達に必要なものは揃っていると思う。
ただしピアノの調律、楽譜、資料の豊富さはかけていると思う。
練習室に関しては
もしここの学生達がもっとやる気を出して練習しなければいけない、
練習したいと思うようになればけして足りるとは言えない。
少な過ぎるが、
幸運にも今の状態では練習室も余って居る様に感じる。
これは他の音楽大学では考えられない状態である。
練習を嫌いだ!と先生に向かって言う生徒も居る。
でも演奏するのは好きだという。
今日私は3人の生徒達を指導した。
一人はとても才能がある。
でも技術的にはかなり低いが、
表現力としては本当に良いものを持っていると思う。
彼女はこういった『私はパンクが好き、歌うのも好き。
だから私の友達は私がヴァイオリンを演奏する事は知らない』という。
なるほどね・・・と感じた。
まだこの国でヴァイオリン、クラッシク音楽が
あまり取り上げられていないので
ヴァイオリンと言っても
楽器の形さえ思い浮かばない子供が沢山居るのだと言うこと。
今の時代にこんな所があるのかと思うであろうがその通りである。
それは貧富の差にもよる。
それは音楽だけではなく、語学力でも良く解る。
学校の掃除をしてくれている女性達は殆ど英語は駄目に等しい。
生徒の中にも学費が払えないで
免除になっている生徒達は英語も片言である。
楽器ももちろん学校のボロボロ楽器。
そんな中親が送り向かいして居るような子供は楽器は個人楽器、
それから英語はぺらぺらである。
そんな状況もこの2日間で見えてきた。
そうして帰る途中では色々な人に絡まれそうになった。
ある少年達は教えてくれた
「今日争いを見た?3時間くらい前にそこの通りで戦争があったんだよ」
と笑顔で言った・・・
この子達はどの様に育つのだろう・・・


パレスティナ日記 2月17日 土曜日

昨晩私は布団のなかで怯え震えていた。
初めての紛争の体験をしたのだ。あれは多分夜中の2時くらいだろうと思う。
いきなり大きな放送が街の中を流れる、まるで空襲警報の様に。
ルームメイトに聞くと
あれはジュウイッシュのお祈りの音だということだ。
そうして銃撃戦の音、鈍い音、爆撃の音、それから何かが壊れる音。
そうして車、救急車、人の叫び声、車の警報機の音。
本当にすさまじい音が飛び交っていた。
どうしてこんな事が起きるのだろうか、
ルームメイトは冷静に答えてくれた。
「ジュウイッシュの人々はパレスティアンにお祈りをさせない様にしているんだ。
 お祈りをしたいなら我々に従え、といっているんだ、
 でも大丈夫。
 争いは宗教に接している人、
 今外に居る人にしか被害を与えない、
 我々には関係の無い紛争だから絶対に民家には影響は無い。
 真也はなれるしかないよ。
 でも気をつけて、金曜日の夜は絶対に外に出ない」
驚いた。
凄く怖かった。
しばらく続いた。
きっと、夜の間ずっと。
僕は布団の中に潜りながら耳に手を当てて眠りに戻った。
そうして朝が明けて学校に向かう時
いつもと変わらない光景に戻っていた。
でも道には建物が壊れている破片などが残っていた。
「あ、でも清掃されているね」
僕には清掃されているようには見えなかったが
ルームメイトは
『こんなもんじゃないんだよ、
 紛争で物が壊されるって言う事は
 もっともっと破片が飛び散っているんだから、人の死んだ跡とかね。。。』
僕は唖然として
いつもの景色を見て
いつもの人々の笑顔を目の当たりにして、
学校で生徒達に会った。
生徒達は何も無かったかのようにいつもと変わらない。
外では女子生徒たちが運動をしている声が元気に響いている。
これだけだったら本当に平和で何処の国とも変わらないのに・・・
夜になるととたんに変わるこの国。
凄い変貌のしかただ。
今日の私の仕事はこれといってなかった。
オーケストラの合宿に行く予定だったが
今日の生徒さん達は初心者の合宿と言う事で
理解ミスが生じていたため今週はもうしごとが無いと言う。
明日は休み。
きっと家で練習に明け暮れるだろう。
それから明後日月曜日は学校へ行き練習。
そうして火曜日は分校に行くであろう。
パレスティナは宗教によって休みが違う。
金曜日と日曜日の人も居れば金曜日と土曜日の人も居る。
複雑である。
来週の土日は上級者のオーケストラの合宿があるため
それには行かなければ成らない。
生徒達と一緒に泊まるのだがいったいどんな所なんだろうか。。。
ちょっと心配。
でも大勢居るから一人ではないので心強い。
火曜日と水曜日は分校に行く。
そこには上級者達が学んでいる。
その上級者達のレッスンをしに行ってくる。
頑張るぞ!
そうして3月12日にはオーケストラのコンサートも有る。
出来ればもう少しコンサートができればっと思っているが、
どうなるかな。
今日は安眠できるだろうか、
今日は土曜日だからきっと静かな夜になるでしょう。
この紛争、慣れるしかないと皆口をそろえて言うが慣れるだろうか。
ここの食事もやっぱり私には合わないようだ。
食欲が無い。
ご飯がやはり食べたい。
贅沢なんだろうか。
住むのに環境が整っていないから材料も買えない。
良い食事が食べたい。


パレスティナ日記 2月18日 日曜日

今日は学校が休みで
コンピューターがチェック出来なかったので
ちょっと時間を持て余すかと思っていたが
こういう時間が有るときにじゃないと出来ない事、
何と言っても練習、練習、練習、
色々書類書きや名簿作り、
それから4月からのプランなどで一日を使ってしまった。
雨が振ったり、晴れたり、雲ったり、
外に出ようにも天気がどうなるのか読めずに終わったが
ちょっと散歩をした。
その時やはり日曜日と言う事もあって
教会に行く人が沢山居たのと町内放送のお祈りが凄く多かった。
人々を見ていると
ジュウイッシュの人、イスラム教の人、よく違いが見える。
そうしてお互いが戦っていると言うのが解らないくらい
人々は一緒の土地に暮らし一緒の空気を吸っている。
でも金曜日には紛争が起こるのだ。
そうして他の日は人々の間で沸々とした争いが有るのだろうが
第三者的には見えてこない。
これが私もこの地に生まれこの地で育ったら
きっとそれが手に取るように解るのだろうが
でも今の私にはやはり理解が出来ない。
ちょっと私が行っている音楽院の事を説明しよう。
学校名はThe Edward Said National Conservatory of Musicと言う。
Edward Saidという学者の名前を取っているのだが
この音楽大学は3年前に設立された。
その創立当時から居る教授達も居るが
彼らは誇らしげにその頃の事を良く話してくれる。
「とても大変だった、
 西洋文化の無いこの国に西洋音楽を入れたのだ。
 そうして西洋音楽を教えていく事の大変さ。
 本当に凄く悩んだし、でも凄く楽しかった。」
きっと私は無理だっただろうなと感じる。
でも毎年学校に西洋音楽を始めて勉強する学生がいるのだ。
学校の中には鍵盤楽器科、弦楽、木管、金管楽器科、
そうして民族楽器科、それから学理科がある。
もちろんオーケストラ、演劇もあると言う。
オーケストラは初級、上級がある。
私はその中の小学校、中学、高校、大学の
ヴァイオリン、ヴィオラ科、
それから大学のピアノ科それから上級オーケストラを指導している。
上級オーケストラでは演奏もしなければならない。
私が指揮をしない時はコンサートマスターに座りボーイング、
アンサンブル方法などを教える。
そうして学生にコンサートマスターを譲り
ヴィオラのトップに座り尚学生に首席奏者の大切さを教えていく。
こんな授業をした事は無いが自然といつも時間が過ぎていく。
土曜日、日曜日は集中レッスンなので来週の土、日も
大変な事になりそうである。
教授達も教えて大体3年が平均的であるが
最近は1年くらいで辞めていく教授達も多いようだ。
というのはやはり安全面での不安、
それからやはり教授達も自分達の音楽的なものの低下を感じるらしく、
やはり教えるだけではなく自分達の技術面に於いても
刺激が無いとなかなかやっていけないというのが現実である。
実際に来年度はヴァイオリン教授が一気に減ってしまうらしい。
私は学校側から凄く求められているのだが、
私もやはり刺激が欲しいし、
それに何と言っても生活環境が悪すぎる。
食生活、衛生状態、それから安全がやはり安心できないのである。
ここのところ睡眠不足が有ると思う。
もう少し精神的に強くなれば良いのであろうが、
でもこれは違うと思う。
まだきっと私にはここは速すぎるのだろうと思う。
まだ1週間しか経っていないので解らないが
それでもこの学校とはずっと関わって行きたいと思える大切な物が有る。


パレスティナ日記 2月19日 月曜日

昨夜も爆撃が聞こえた。
なかなか寝れなかったため今日はちょっと寝坊をしてしまった。
月曜日は学校がやっているのか解らなかったが
勇気を出して学校に行ってみた。
行く途中、
荒野の中にテーブルを作ってお茶をしている
お祖父ちゃん軍団がいた。
皆イスラム教徒だろうか。
身なりがその様だった。
そうして私の目の前には桜が咲いている。
なんともミスマッチな光景だった。
梅も咲いている。
思わずにおってしまった。
そうしたら目の前に女の子が居た。
英語で「Hello」と言われ
それに笑顔とHelloと答えて通り過ぎたら
私のマネをして匂いを香っている女の子の姿が可愛らしかった。
今日は朝から学校に行き
インターネットをして久しぶりに友人達と電話をして
皆やはりパレスティナ事情に付いて興味を持っているらしく
色々な話をして
私も久しぶりにストレス解消をした様な
すっきりした気分になった。
今日は学校は意外と静かな日だった。
昨日までキャンプだった為昨日参加した子供達は今日はお休み。
それから先生方も月曜日がお休みの先生方が多いようだった。
今日は学校の説明を受けて
他にイスラエル大学からここの学校の先生になりたいと言う学生が来た。
とても真剣に自分の説明をしている。
今日は先生が少ない事からその話が筒抜けだった。
その学生は自分はどんな先生になれるのかとか
色々な話をしているようだった。
学校側もどう言う人がこの学校で教えているのかなどを説明している。
「ジャパン」と聞こえた。
お!これは私の事だ…耳がダンボになる。
「日本からも教授としてこの学校に来ている、
 彼は26歳で我校にヴァイオリン、ヴィオラ
 そしてオーケストラの客員教授としてきている。
 彼のようにこの国の出身じゃなくても
 興味を持ってくれて教えに来てくれる方もいて
 彼はアメリカでの経験、アジアでの経験、
 そうしてヨーロッパでの経験を
 子供達に話して聞かせてくれているのですよ」
と淡々と私の事を話している。
確かに子供達には色々な事を聞かれる。
「日本はどういうところ?」
「アメリカ人?」
「ドイツはどんなところ?」
などなど。
それに一つ一つ答えているところに
彼女に見つかったのは認めるが、
俺はここではまだ教えているとは言えない。
お手伝い程度だ。
でもその様に言って
先生になりたい方の意識向上を高めているのかもしれないが、
ちょっと恥ずかしい気がした。
俺も頑張らねば。
明日は何をするのかよく解らないが
今週は分校での指導が待っているので、
果たしてどうなる事やら。
今日も良く練習できたな…
ヴァイオリン少しはうまくなったかな…
今日は面白い光景を見た。
ロバに乗って何処からか帰ってくる子供達である。
ここには日本車も多いし、ドイツ車、アメリカ車も多い。
ベンツ、BMW, VOLVOと高級車も多く走っている。
と思いきやロバである。。。
そうしてどういう道に行くのかというと荒野に入っていく、
彼らを追うと荒野の中にぽつん民家と思われる家が有る。
テントのような感じである。
そこに住んでいる子供たちだと思う。
もしかすると家を失ったのかもしれない。
そうして見ているとなぜか馬も何頭か居る。
ここはどんな国なのか…本当に色々な人々が住んでいる。
今夜は爆撃が聞こえないし放送も聞こえない。
久しぶりに静かな夜である。
あ、爆撃の音だ…やっぱり聞こえた…


パレスティナ日記 2月20日 火曜日

パレスティナに来て1週間。
今週からだんだんと忙しくなって来たのも有るが
ただ単純に慣れてきた。
1週間経ってやっとお金を変えに行って来た。
学校の方が車で送ってくれてその後ショッピングをした。
食べ物を買いに行って来た。
しめて120ユーロを変えてこちらのお金で650シェィキーだった。
さすがユーロは強い!嬉しい!
でもきっと全然使わないだろう。
私が住んでいるところは何も無いからだ。
きっとお金は余ると思う。
あと3週間も無いのだから。
全然使わないだろうな…
でも良いのだ、お金は持っていることに越した事は無い。
さてさて、今この日記を書いている最中も
私の上を飛行機が飛び、銃声も聞こえる、爆撃の音も聞こえる。
今日はお昼の時間帯であっても銃声が聞こえた。
すさまじい銃声だった。
そんな中いつもは部屋の中でじっとしているのだけれども、
外に出てその光景を目の当たりにしたいと思った。
私は幸運ながらも戦争を体験した事は無い。
でも今ここで戦争を体験している。
子供達は走って家路に付く。
でも子供達の顔にはなぜか笑顔…
この光景を何か不気味にさえ感じた。
この子達はこの光景を恐れていないのだ。
私はカメラを向けることを止めた。
何か胸騒ぎがしたからだ。
子供達は手に石を持っていた。
大きい石を持っている子供達も居た。
ルームメイトに聞いてみると
子供達は銃を持つ事が出来ないので
石を持って抵抗をするのだと言う。
子供と言っても10代だと思う。
警察、自衛隊、軍隊が見えた。
彼らはマシンガンを持っている。
石をぶつけようとする子供達にマシンガンを向ける。
そうして空をめがけて打つ。
子供達は逃げる。
その光景を目の当たりにしたのだ。
私は窓を閉めて鉄板をはめて部屋に戻り練習を続けた。
これが金曜日にはもっとエスカレートするのだ
きっと死者もでるのだろう。
私は音楽をしに来たのだ。
それに集中しよう。
今日まで私はオフだったのだ。
昨日も生徒を教えたが校長曰く今日まで私はオフだったらしい。
明日は分校に行き
室内楽のコーチ、上級者達のレッスン、ピアノのレッスン、
それからオーケストラのコーチもする。
そうして友人宅に泊まり木曜日は又同じ学校で教える。
そうして金曜日はラマーラと言う地区に有る
音楽大学に教えに行く。
そうして土曜日、日曜日は
3月12日に有るコンサートの為のリハーサルが始まる。
集中講義だ。
これも大変な事になること間違いなし!
でも楽しみである。
自分が慣れて来たのも有るが自分が役に立ちつつあるのだと思う。
私を含めてこの学校にはヴァイオリンの専任教授が5人居る。
ヴィオラの専任教授は居ない、
ヴィオラのソロを弾けるのは私だけである。
生徒達はヴィオラの演奏と言うのは聞いたことがないと言う。
私が帰るまでにヴィオラのコンサートをやってあげようかと思う。
それから室内楽のコンサートを企画しようかと思う。
優秀な生徒を入れて講師との演奏だ。
誰かが動かなければこの学校は動かない。
でも動こうとする人には学校は全面的に協力する。
私が来た、
この理由は少しでも生徒達に影響を与えるためである、
音楽を届ける為である。
だから多少苦労をしても音楽を届けなければ、
と決意新たにした今日一日だった。
あ、そう言えば昨日のロバ少年達、
彼らは学校に行けない子供達。
物を売っての生活。
まだ8,9歳くらいだ。
学校に行かせて上げたい。


パレスティナ日記 2月21日 水曜日

今日私は「バテラハム」と言う町に来た。
そこにも音楽大学の分校が有るのだ。
エルサレムから約20分ほど車で行った所である。
このバテラハムと言う町にくるまでに
チェックポイントと言う所を通過しなければならない。
そこは言うなれば「入国審査」みたいなところである。
元は同じ街だったのがイスラム教、ジュウイッシュが戦い
ジュウイッシュの人々はそこに大きな壁を作ったのだ。
想像できるのはベルリンの壁のようなものである。
元は隣同士だったのが別れ別れに、
隣の部屋に窓を開ければ声が聞こえ会話が出来たのに、
今は窓を空けても壁がそびえ立っているだけ。
10メートルは有るであろう壁はそれを物語っている。
家族と隣だったのが
今は別な国に住んでいるかのように遠く感じると言う。
そんな小さな町に今日は沢山の才能を見つけた。
今日は上級クラスのヴァイオリン、ヴィオラ
それからフランスから帰って来たというピアノ伴奏の女性を指導した。
今日改めて思ったのはここに通っている子供達は
音楽家になるためにこの学校に通っているわけではないと言う事、
中にはもっと勉強をしたい、
上手くなりたいと言う子はいるが、
彼らは音楽の事を知りたいから、
演奏したいから通っているのだ。
それがとてもクリヤーに解るのだ。
彼らの笑顔から、彼らの演奏から。
もちろん練習は嫌いだろう、遊びたいだろう。
それでも彼らはレッスンに、学校に来るのだ。
なぜなら音楽家になろうとしていないからだ、
音楽を楽しみたいから、音楽を弾きたいから来ているのだ。
もしかすると音楽大学、音楽学校とは
元はそういう場所だったのかもしれない。
今有る音楽大学は必要だとは思うが、
初心を忘れすぎているような気がする。
そんな中私は今日とっても素敵な話を
ヴァイオリンの教授であるミッケレ、クラウディアの二人から聞いた。
ある生徒(10歳)がこの学年度が始まる時に
レッスンの曜日をクラウディと相談している時だったそうだ、
「この日とこの日どちらが良いか」とクラウディは訪ねたそうだ。
彼女はこう決めたそうだ。
「この日にレッスンに行くようにする、
 だってこの日に行けばヴァイオリンのレッスンには必ずいけるし、
 それからもう一つの日はいつも友達の誕生日会や自分の誕生日会、
 それからパーティーが有るからどうしても出たい。
 だから自分が家でゆっくりする時間が無くても良い」
とクラウディアに笑顔で言ったそうだ。
クラウディアはとても喜んだそうだ。な
ぜなら彼女はヴァイオリンにも一生懸命である事は勿論だが
彼女が「遊びたい」と言う子供心を無視していなかった事だ。
彼らは言う。
「ここに住んでいる子供達は自分達の時間の過ごし方を良く知っている。
 それから自分が今何をするべきかを良く知っている。
 大切なものを持っている」と。
私はこの国にきてから道でよく「HELLO」と声をかけられる。
それから「ようこそパレスタインへ」とも良く言われる。
素直に嬉しい言葉だ。
それを笑顔で「Thank you」と返せる自分が今はいる。
勿論その裏には色々意味が有るのかもしれないが、
そんな事を考えるより言われた事に返して答える、
ぶつかったら素直にごめんなさい、
それに対していいえ大丈夫ですよ、
と答えられる方がもっと素敵である。
それがこの国にはまだ残っている。
色々な問題がこの国には有る、有り過ぎるくらい有る。
危険と言えば危険である。
でも少なくともここの人達、子供達は人らしい。
私はここの人々が好きになりつつある。


パレスティナ日記 2月22日 木曜日

今日はベテラハムと言う所に来ている。
昨夜から他のヴァイオリン教授のお宅に泊まらせて頂いているが
ここは素晴らしく良い環境である。
部屋はリビングルームを合わせて3部屋有り素晴らしい環境だ。
ここだったら1年間はいられるかなと言う感じがする。
これを読んでいる方達にもあの環境を味わって欲しいくらいだ。
素晴らしい!
本当にここは我々が日本で、
或いはドイツで聞いていたパレスティナなのかと思わせるくらいの所だ。
今日は朝ゆっくり起きてシリアルを食べて散歩に出かけた。
べテラハムには大きな壁が聳え立ち
ジュイスラエムとパレスティアンに分けられている。
その光景を目の当たりにしながら
写真を取りながら町の中を色々話を聞きながら歩いた。
あるビルを友人は指を刺した。
そこには小さな穴がいくつもあるビルだった。
「ここには軍人が居たんだ。
 今こそそれはなくなったが
 つい最近まであの穴から軍人が民家を狙い銃殺をしたり、
 家の上に有る水タンクが有るが
 それを打って水を与えなくしたりしていたんだ。
 ここに住んでいるパレスティアンを追い出し、
 もしくは皆殺しにして(餓死)
 この土地までもジュイスラエムのものにしようとしたんだ。」
私はあっけに取られてしまった。
その説明を受けてから
私はその小さな穴が有る建物をいくつも見つけてしまった。
と言う事はそこには常に兵隊がいて
そこから狙われるかもしれないと言う恐怖が毎日続いて居たんだ・・・
と思いながらとても切ない気持ちになりながら道を進んだ。
そうしてしばらく歩くと大学が見えてきた。
私立大学であるが、
ここで音楽を教えても居る彼はとても顔が広いため
私の事を説明し大学の中を見学させてもらえるように話をしてくれ
快く我々を中に入れてくれた。
その中は丸で別世界だった。
噴水が有り、緑が有り、公園が有り、綺麗な大学が有り、
教会が有り本当に天国と地獄と言ったところであろうか。
素晴らしい建物だった。それからそこに通う生徒に話をかけられた。
丁度今日は試験の日だったと言う。
彼らと話して感じた事は
とても自分が何を勉強しているのかクリヤーにわかっている事、
それから自分達が勉強している事に誇りを持っているということ、
試験の為に自分がどれだけ努力をして
これだけのポイントを取りたいと思いながら
勉強に励んでいると言う事だ。
勿論全員ではないにしろそういう意見を聞けて凄く嬉しく思えた。
何故彼らはそこまで勉強に力を入れているのか、
私は単純に不思議に思った。
なぜなら彼らには今土地もジュウイッシュに取られ、
職も取られ、彼らに残っているのは文化と自分自身なのである。
だから自分に出来る事「勉学」を
若い彼らは必死にしていると言う。
そうしていつか見返すんだ、自
分達の場所を取り戻すんだ、
と言う気持ちが有るらしい。
皮肉にもそこにまで小さな争いを見つけてしまった。
彼らと話をして居て自分も頑張らねばという気持ちが出てくる。
彼等の眼差し、
言葉には強さも有るが優しさもある。
今日は午前中だけでそれだけの事を体験して感じて人に出会ってきた。
今日はこれから学校に行く。
今日は上級クラスのヴァイオリン、室内楽、
それからヴィオラの指導も有るそうだ。
今日初めて私の予定が紙になって現れた。
あと2週間だ。
頑張るしかない!
その中で休みは2日だけ。
私がそれだけで良いと言ったのだ。
ここに居れる分だけ沢山の子供達と接したい、
そう心から思う。
さ、仕事仕事!音楽をしてきます。


パレスティナ日記 2月23日 金曜日

今日は音楽大学最後の分校ラマーラという所に行ってきた。
その前に初心者のオーケストラの指導に出向いてきた。
必死に指導しこの子達を地道に教えていけば
素晴らしい音になるのではないかなと思った。
明日からは音楽キャンプに行く。
課題曲はベートーベン、シューベルトである。
物凄く心配しているが、
どうにか生徒達の成長になれるように頑張るしかない。
さてラマーラに付いて少し書こうと思う。

今日は目の前で何が起こったか。
自分の中でも整理をしながら書いていきたい。
私がメインで住んでいる所はイエルサレムと言う所、
昨日まで居た所、
べテラハムとこのラマーラという町に行くには
パスポートを見せたりチェックをしなければいけない
「チェックポイント」と言うものが有る。
ベテラハムに行く時はとても平和で素晴らしい所だと思ったが…
今日目の前で起こったこと、
それは映画でもなんでもない「紛争」だった。
子供たち、大人
(10代の子供もいるだろうし、
 10代にいかない子もいるという、それから勿論20代)
が警察に向かって石を投げる、
そうしてタイヤを燃やし、炎と煙を上げている。
それに対して警察は銃を向けている。
本物の弾ではなくそれに当たると
かなりの激痛を与える弾があるらしい、
それでも引かない場合は銃殺すると言う。
その流れ弾に当たって死んだ女の子、母親、赤ちゃんがいるという。
そんな話をしているとある生徒が
「私のお母さんはああやって弾にあたったのよ」と言う。
信じられないが本当に目の前でついに起こった。
私達は道をさえぎられ前に進めなくなり
20分くらいだっただろうか紛争が収まるまでバスの中で待った。
私はドキドキしていた。
最悪の事態まで考えてしまった。
子供達がそれを見て何を思っているのだろうか。。。
私はとても悲しくなり、やるせなくなった。
言葉を失うと言うのはこのことだ。
そうして車が発進して流れ弾に当たらないことだけを祈っていたら
石が飛び交いガラスが割れて私は3人の生徒の上に覆いかぶさった。
しばらくして収まり
同じ学校のチェロの教授の女性が私の肩をポンとたたいてくれた。
そうして彼女はカーテンを閉めて目を伏せている私にこういった
「きちんと見ておいたほうが良い、
 こういうところに音楽が必要と言っている子供達が居る、
 私達はこの子達と一緒にいてあげなければいけないの、
 だから今見ているものをきちんと見たほうが良い」
と話してくれた。
わたしはカーテンを開けて子供達が見ている光景を一緒に見た。
そうすると子供達が「we are all right」と言ってくれた。
私は彼らに励まされた。
そうしてその子供達がくれる笑顔に。
私はその時に私が彼らに
音楽を少しだけかもしれないが伝えているより遥かに
私は彼らに今救われている。
心から有難うと言える気持ちだった。
それから後1週間あるが
その間私は一生懸命彼らに伝えようと決意を新たにした。
そうして指導をして帰り道一緒に帰って来た先生たちから言われた。
「私達は真也が必要なんだ。
 でもそれをプレッシャーに感じる必要はない、
 先ずは自分がしっかりしていないといけない。
 今までも若い人が来ても
 自分がしっかり持てていない人は
 精神的にやられて帰るはめになる、
 そうしたら子供達はもっとかわいそうだ。」と。
今日改めて「生きたい」と凄く思った。
死にたくなかった。
こちらに来て初めて親友に弱音を吐いた。
静かだと寝れず
今ベートーベンの9番の3楽章と共に
これから寝ようと思う。


パレスティナ日記 2月24日 土曜日

今日の午前中は雑用をやって学校に行き練習、
インターネットをしてそうしてキャンプに生徒達と一緒に移動した。
これが又大移動で…これだけで疲れそうだったが、
場所に着いたら直ぐにセクショナルが始まり
私はヴァイオリン、ヴィオラのセクショナルが始まった。
本当に凄まじい…先ず集中力がない。
基本的にオーケストラの中で演奏すると言う知識が少ないと言うか
無いと言ったほうが正しいかもしれない。
とにかく大声を出しても回りはうるさくなる一方なので
私は小声で話すことに決めた。
そうして一緒に歌い生徒達は次第に私を見る目が変わってきた。
私の言う事にうなづく生徒達も出てきた。
ペンを取り書きこむ生徒も出てきた。
これは凄まじい成長である。
私も細かく指示を与える。
指揮者を見るポイントの時には
メガネのマークとか目の絵をかきなさい!とか、
そう言うと早速書いている生徒も居る。
その後はとにかく一つ一つを丁寧に指導をした。
生徒達の集中力は持って45分。
それが精一杯だった。
そうして休憩。
次は徹底したセクショナル。
ファーストバイオリン、セカンドヴァイオリン、
そうしてヴィオラを徹底していじめた。
それでもあまり答えていないようだったので
もっともっとドつぼにハメル。
この子供達は全然笑顔が消えない。
ただ単純に楽しんでいるのだ。
皆で弾く事にただ単純に喜びを感じているし
私と言う人間が珍しいのかもしれない。
だからそんな笑顔を見ていると私も怒れなくなる。
喜びさえ感じてくる。
少しずつでは有るが良くなって来る音に
私も嬉しくなりだんだんと注文も増える。「
え〜まだやるの〜」と言う言葉に
私は笑顔で「上手になるまで」と答え
「え〜そんなのいつになるか解らない」と言う。
こんな音大生いるだろうか…
レベルが低いと言ってしまえばそれまでだが
でもそれ以上に何かが有るのだ。
レベルはこれ如何無いと思うほど低い。
音大生のレベルとしてはありえない。
ただ音大生としてもっとありえないのが
ここには戦いが無いのだ。
戦いというか競い合いが無いのだ。
それは良いのかどうなのか解らないが、
きっとこれからそれはでてくるだろうが
良い意味での競い合いが今日は少しだけ見えた。
それは競い合いと言うよりは憧れなんだろうか。
休憩中に「僕と一緒に練習をしてくれ」とか「
ここを教えてくれ」とか「ここが弾けない」とか、
伝えてくれる生徒が周りを囲んだ。
何だか嬉しい光景だった。
写真に取りたかった。
でも自分がその和にいたので撮れなかった。
でも嬉しいものだなと感じた。

ここの所いつも心の中が変わる。
もうここに来てそろそろ2週間が経つ。
ベテラハムにいたときは来年も来ても良いかな、
という気持ちになったが
昨日はやはり自分の命に危険を感じ
その時はやはりもう来れないという気がした。
でもこうして又子供たちと接するとやはり来て上げたくなる。
そうして音楽をもっともっと伝えたくなる。
教授の人達からも来ないのかいという誘いが多い。
「君が着たら一緒にこういうプロジェクトをしたい」
「講師演奏を一緒にしたい」
「この学校が変わるよ」と。
そりゃ、良い事を言うのは当たり前だろうが
でもそれ以上に子供達が
「来年はフルタイムで居るんでしょう?」と聞いてくれる。
いつも「まだ解らないな」って言う感じで答えてしまう。
そのつど子供達の笑顔がちょっと曇るのが心が痛い。
最近真剣に悩んでしまう。沢山悩む事にしよう…



パレスティナ日記 2月25日 日曜日

心地よい疲れと共に帰宅。
夕ご飯を食べて明日からの予定を見て元気がでてきた。
明日は休みだけれども学校に行く。
そうして火曜日にはべテラハムに行って
室内楽のコーチング、ヴァイオリン、ヴィオラのレッスン
それからピアノのレッスンも有る。
事実上今週が最後なので頑張る。
日記も後8日間。
その後私はフィンランドへ。
そうしてその後3月12日には
又このパレスティなのデュバイという都市へコンサートに行く。
今回のキャンプでは生徒達は何を学べたのだろうか。
去年までの指揮者が来た。
生徒達は「来たー!」と喜ぶかと思いきや
無反応で生徒達もあまり喜んでいない様子だった。
今回ベートーベンのプログラムやシューベルトを選んだのも彼女だという事だ。
私は今回ヴィオラで乗る事になっているが疑問が沢山有った。
生徒達はお世辞にも弾けているとは言いがたい状態だ。
はっきり言って無理をしている状態である。
そうしてリハーサルをしているうちにつぎつぎと
「You are out!」とはずされている状態。
私は疑問を感じて休憩中に「何故この曲を?」と聞きました。
そうすると「この曲は良い曲だし、これくらい弾けないと」という。
彼女はアメリカから来ているが生徒の事をまるでわかっていない様だ。
1年間指揮者としてこの学校にいたのに
生徒の事が何もわかっていない。
生徒達にこのベートーベン、シューベルトは難しすぎるのだ。
楽しむどころかこうして外されて自信を失う状態である。
でも演奏会が待っている以上良い演奏をするしかない、
私は捨てられた生徒達も全員入れて
弦楽器のセクショナルをすることにした。
指揮者に断って全員参加で弦楽器のワークショップとして。
弦楽器の他の先生方にも見ていただいた。
そうするとやはり生き生き弾いている。
細かく助言を与えつつゆっくりしっかり、
自分もヴァイオリン、ヴィオラを弾きつつやった。
とにかく皆に音楽を伝えたかった。
それからオーケストラで弾くという事の責任感と
同時にオーケストラだから出来る事、
一人じゃ出来ない事を話した。
その時私は凄く嬉しかった。
生徒達が笑顔一杯だったのだ。
楽しそうだった。
うるさくはなるが昨日から私が黙ると
「お・・・」という感じで直ぐに静かになる。
そうして又弾く。
リハーサル後他の先生方から
「どうにかして9月から来て下さい」と言われた。
又迷う自分がいる。
指揮をしながら「この子達をほっておけない」
この気持ちが沸々と出てくる。
この子達は本当に我々指導者次第で
本当にどうにでもなるのである。
良い音楽を教えられるか、
音楽を(西洋音楽)を学べないで終わるか。
それは本当に我々次第だ。
彼らはハングリーなのだ。
「シンヤー、教えてー」と来る。
「after lunch you will teach me, O.K.?」とも言ってくれちゃう。
普通先生にはそういう風に言わないであろう、
日本でそんな事言ったら怒られるであろうが、私は嬉しい。
その気持ちが嬉しい。
私は今日聞かれたこと、誘われる事、
出来る事は全てやった。
バイオリンも、
カードゲームも、
ヴィオラも指揮も、
卓球も、ご飯も。
沢山の子供たちと触れ合った。
お手伝いに来ているパレスティナユースオーケストラの人から
「レッスンをしてくれるか?」
とバイオリンも個人レッスンもした。
そうしたら終わる頃になると
回りには5,6人座って聞いている。
終わったら他の生徒が
「今度は僕を教えるの!」
と私の予約をし始める。
この子達は本当にハングリーだ。



パレスティナ日記 2月26日

2月も後2日となった。
ここに来る前は命の危険性を覚悟して
日本を出発するとき確かに物凄い決断をしてきた。
色々な手紙を書いてきた。
これ程までに自分の命に対して覚悟をした事は無かった。
でも今ここに来てみて
確かに命の危険性を感じた事は何回か有ったが
でもそれを除けば本当に良い思い出が沢山有る。
なんと言っても沢山の事を学んだ。
今日は休暇だったのでゆっくりして
色々と思い返して練習をして、
九月からどうしようかと悩んでいた。
生徒達だけの事を考えたらここで教えたい。
移動とこの環境に住むということを考えたら
ちょっとやはり考えてしまう。
しかも一人で。
私がここで最も信用するヴァイオリンの教授二人は
夫婦で私にこう言った
「もしここに来るなら
 他に貴方が最も信用する人を連れてきた方が良い」という。
私は今現在信用している人は確かに居るが
その人は日本を離れる事はけして出来ない。
それを考えるとやはり厳しいかな…
でも子供達は「来年は真也は来るんでしょう?」と聞く。
その答えに迷ってしまう。
この子供達を見捨てる事が出来ない自分が居る。
この子供達に伝えたい事が沢山有る。
ま、まだ時間はある、じっくり考えようと思う。
私の人生はこういう感じで今まで来たのだ。
だからじっくり考えて決断を下そうかと思う。
この少なくても2週間で私はここの生活になじんできた、
子供達にもなじんで来た。2
週間で多少この国の問題点や紛争理由、
それぞれ地域が持っている問題が見えてくる。
私がもし9月から来るとしたら
改善しなければいけない事をリストアップしてみよう。。。

1. 楽譜の充実(協奏曲、小品集、室内楽)
2. レッスンの充実(音階、エテュード、小品、協奏曲またはソナタ)
3. 室内楽の充実(コンサート、公開レッスン、初見クラス)
4. オーケストラとの連携(オーケストラ全員参加、曲目検討)
5. 弦楽オーケストラの充実(生徒達同士の教授をすることでの責任感)

主に上げられるのが以上の事であると考える。
これは私が弦楽科主任になると考えて
変えていかなければならないと思うことである。
まだ西洋音楽が入って間もない事から
やはりきちんとした形が取れていないということ。
それを構築する事がとても大切なように思う。
生徒一人一人と向き合って曲目を決めて、
進め方を決めてコンサートをしていく。
その事で努力をする意味を伝え
努力をしたことで自信をつけてもらう。
心から接するという事。
常に心から問い掛けると言う事。
私がもし着任したらこれらを徹底したい。
そうして他の先生方が築いたものを壊す事無く
私が出来る最善を尽くしたい。
こう書いているとやはり9月から来て上げたくなる。
ただ問題も有るのだ、日本の生徒さん達だ。
ここもほっては置けない。
大切な生徒さん達だからだ。
本当は2ヶ月に一度の割合で来るというのが一番良い事だ。
これが一番良い。
だがそれだと何も出来ない。
決断をしなければいけない。
よくよく考えなければいけない。
検討しなければいけない。
考えなければいけない。
考えなきゃ・・・
明日はいつもと同じように10時に学校に行き
練習をしてベテラハム校に教えに行く。
またたっくさん笑顔を貰ってこよう!


パレスティナ日記 2月27日 火曜日

今日は分校のべテラハムに来ている。
そうしてヴァイオリン教授のおうちに
お邪魔しているのでとても快適である。
美味しいイタリアン、美味しいワイン、ウィスキー、
勉強になる会話などだ。
今日は室内楽を中心に指導をした。
その前にヴァイオリンの生徒を指導したフランクの
ヴァイオリンソナタをレッスンして
その後は上級クラスのピアノトリオを指導した。
ただ今日は私がちょっと風邪気味な為に
本調子でレッスン出来なかったのが残念である。
ここ3日間寒い日が続いている。
零下とかではないが強い風と物凄い雨だったので
傘を持っていなかった私は昨日雨にあたりずぶ濡れになった、
それが原因だと思われる。
でも、今日のレッスンでは素晴らしい才能を見つけた。
チェリストである。
彼は14歳であるがとても才能が有る。
音楽的センス、聴くセンス、チェロを弾くセンスが有る。
とても良い子だし、精神力も有る、
是非彼にはここから離れて留学をして
良い先生に巡り会って欲しいものだ。
それを私は一緒に居るヴァイオリン教授に話したら
彼らもそう思っていたらしい。
これは是非とも前向きに話したいと思った。
その他にもピアニストも非常に才能がある、
明日ピアノを聞かせてもらう予定だ、
それによっては先生を紹介しようかとも思っている。
才能と言うのは場所、
環境を選ばず有るものだなと感じた。
嬉しくなった。
講師演奏会に彼らを出演させたいと思った。
現実になるか明日学長に話してみよう。
さて今日は良いことがあったのだ。
それはパレスティナではなく日本でだ。
私の友人が私の代わりに実家を訪れてくれたのだ。
最初はわたしも知らなかったので私も私の親も驚いたが、
でも結果的に色々な物が
彼がたった20分くらい私の家を訪れてくれたお陰で
改正された感じがした。
親との距離、親の不安などがだ。
彼は私の事を客観的に話し、
伝えてきてくれたと言う。
そのお陰であろうか、親はたいそう安心た感じで電話をくれた。
「あの方と一緒に音楽をしているなら安心した。
 そう言う人との音楽を聴いてみたい」
とまで言ってくれた。
私は本当の意味の親友をもてたなと感じた。
有難う。
そんな一日を送り、
良い音楽に出会い、
良い生徒に出会い、
夜もまた素晴らしく、
ここが本当にパレスティナなのかと錯覚に陥る。
でも紛れも無くパレスティナなのだ。
昨日は怖くて寝れなかったパレスティナなのだ。
あまり考えないようにしようと思う。
昨日昨日、今日は今日である。
一日一日を大切に精一杯生きよう!
そう思える。
欲張らず、謙虚に、
でもハングリーに音楽の為に行きたい、
そう思いながらこの日記を書いている。
後5日間である。
その後はフィンランドに飛び、
11日にパレスティナに帰ってくる。
頑張らねば!
12日にパレスティナからちょっとはなれたデュバイと言う都市に行く。
そこでイスラエル交響楽団との
ジョイントオーケストラコンサートが有るのだ。
私はそこに出演する楽しみである。
その為の練習がまたこの土日に有る。
キャンプである。
またあの指揮者が来るらしい。。。
私は私に出来る事を精一杯やろうと思う。
でもオーケストラだからグループの決断力が必要である。
生徒達と一致団結しなければ!
せっかくの演奏の機会、
良い演奏をして周りの方々に
ここの学生は頑張っているんだと言う事を
理解してもらわなければ。
精一杯、音楽に対して精一杯!
今日は静かな夜である。 


パレスティナ日記 2月28日 水曜日

今日は朝はゆっくりして練習をしてそうして学校へ。
ヴァイオリンのレッスン、
室内楽のレッスン、
そうして有るピアニストのレッスンをした。
彼は15歳くらいである。
ピアノはよく弾くし、音楽センスも有る。
彼が演奏しているのはとても難易度の高い曲ばかり。
きっと素晴らしい演奏をするのだろうと
昨日の室内楽のレッスンでは期待していた。
確かに初見では有るがよく初見が出来ている。
ただ何だかピアノが鳴っていないし、
濁って聞こえる。
私は昨日問題を見つけた。
そうしてちょっとだけアドヴァイスをした。
そうしたらレッスン終了後彼は
「真也は明日時間あるか、
 もし有るならレッスンしてもらいたい」
と言う。
という事で今日特別に時間を作って
レッスンを1時間半ほどした。
彼が今現在の先生に見て貰っている曲には触れず基本練習をした。
モーツァルトのソナタ、
シューベルト、それからツェルニーを弾いてもらった。
彼は「僕は今日の様なレッスンをずっと待っていたんです。」
と素晴らしい笑顔で言ってくれた。
彼は昨年アメリカの音楽祭に呼ばれ
あるピアニストのレッスンを受けたと言う、
その時にアドヴァイスされたのも、
それからここパレスティナでも
有名ピアニストに師事した時も言われた事が
「脱力」だったと言う。
私は昨日真っ先にそれを言った。
そうして今日はそれを感じてもらおうと
脱力をしないとピアノの音が出ない曲ばかりをそろえて待っていた。
案の定だった。
私は聞いた「最近腕とか痛まない?」と聞き
彼は「実は最近腕を痛めていたんです」
私は当たり前だと思った。
指に筋肉はついていない様だったし、
サポートが無い。
なのに無理をして凄い曲を弾いている。
これを続けると腱鞘炎になりえないと
私は彼に続けある私の友人の話をした。
彼は今日のようなレッスンをしたのは初めてだという。
彼は続けた「明日も時間が有るか、それとも来週は?」
私は違う学校に行く予定だったが
フィンランドに行く前に彼の為にここの学校に来る事を決めた。
現実問題このパレスティナには
才能溢れている子供達が彼だけではなく沢山居る。
でもその才能を諦めさせる環境がここにはあるのだ。
子供達は家族と一緒に居たいし、
家族も子供を自分の手で育てたいと思っているが
それが叶わない子供、親が沢山いるという現実。
これは無視を出来ない。
私はここに常勤教授として来る事を
最初の段階で無理だと思い校長に話をしたが
私が教えた生徒達は
「来年真也が来る、そうして私を教える」
と希望を持ってくれている。
それに答えたい、と最近思っている自分が居るのだ。
明日また本校に行く。
私の要望・条件を伝えようと思う。
もしそれでオッケイがでれば
私はここの学校に定期的に来ようかと思っている。
後4日間で決断しなければならない。
私は日本にも素晴らしい生徒が居るし、
ここにも私の生徒が出来た。
誠心誠意接するしかない。
きちんと考えてきちんと決断したい。そ
れは私の生徒さんの為だけではなく
私自身の為にも。
でも幸せに感じる。
何故か、それは日本にも、ここにも、
アメリカにも私を待ってくれている人々が居ると言う事だ。
私の親友はこう言ってくれた
「とにかく気をつけてパレスティナで過ごしてください。
 なぜならあなたの体は自分のものでも有るけれど、
 もはや貴方だけの物ではない。
 ご両親、恋人、友人、生徒さん達、
 それから親友のものでも有るのだから」と。
私は幸せ者である。明日から3月。春ですね。櫻見たいな…



パレスティナ日記 3月1日 木曜日

ここの勤務も後残りわずか。
今日も不安定な天気の中学校へ行き4人のレッスンをした。
そうしてフィンランドにもって行くスコアーの勉強をしたり
自分の練習にも余念が無い。
フィンランドの講習は今回が初めてだが楽しみだ。
集中講義なのでとても楽しみ。
今週の週末もオーケストラの集中講義なので大変。
それが最後の仕事になる。
今回そろそろまとめに入ろうかと思う。
先ずは環境的なこと。
この国には宗教がはびこっている。
良い意味ではなく悪い意味で。
イスラム、パレスティアン、ジュウイッシュ、アラブ。
人種も様々。
その人種によっては行ける地域と行けない地域がある。
もともと一つの都市だったのが
今となっては三つに別れている。
同じ人間なのに行けない都市がある。
それによって影響を受けているのが学生である。
私が今回来た音楽大学にはそれが多大な影響を与えていた。
例えば先生の中にもここの分校でしか働けない、
2校の分校には教えにいけるが
本校にはこれない等の問題が有る。
それから生徒の中には
この先生のレッスンを受けたいが
この先生が学校に来てくれなければ
レッスンを受けられないと言う子もいる。
14歳までは何処の国にでも行けると言うのが
一応の法律なのだが
兵隊によっては意地悪をする人達も居ると言う。
それに刃向かえない人々は涙を飲むしかないと言う。
今回も私が沢山の分校に行ったのは
それが一つの理由なのである。
私はどの人種でもないので
国外から来た人はどの街にでも無条件で入れるのだ。
それに私は仏教徒であるが
彼らにとっては無関係の宗教の為問題ない。
一応ラマーラ市、ベテラハム市に入るときは
パスポート、ヴィザのチェックが必要になるのだが
パスポートを見ずに
監視員は「早く行きなさい」と言い私を通す。
それを見ていた学校関係者は「日本人は凄いな」と言う。
以前中国人、韓国人が通ろうとしたが時間がかかった。
と言う話を別な人から聞いたが
私は何度か行ったが
一度もパスポートの中身を見せたことが無かった。
これほどまでに簡単なのだが
この国に生まれた人は
赤ん坊であっても検査をしっかり行うのである。
例えばベテラハム市の子供が怪我をしたとしよう。
そうしてベテラハムには専門医がいなくて
イエルサレムにはその専門医が居るとする。
イエルサレムとべテラハムは隣町同士、
元は同じ都市であったが壁ができて以来
そこにはチェックポイントがある。
なのでベテラハムの医師から
推薦状がエルサレムの病院に届き、
それに対してイエルサレムの医師から
入国許可書のような物が発行され
それの審査がチェックポイントで行われ
初めてチェックポイントで審査が受けられる。
実際にヴァイオリンの生徒で
背骨に異常が見つかって
手術が必要と診断を受けたが
直ぐ手術が出来ず
1ヵ月後にようやく手術が出来て
今リハビリ中だが
本当であれば来週に
あるオーケストラのコンサートにでれる予定だったのだが
手術が遅れたために出れなくなった。
しかも手術も直ぐ済むはずが
1ヶ月経っていたため
とても難易度な手術になったので
出費も凄かったと言う。
こういう事はこのヴァイオリンの生徒だけではなく
もっと多くの人が同じ境遇に居るのだ。
それで命を落とす人も居ると言う。
才能を食いつぶす境遇…
私はこれを感じずにはいられなかった。
今日もそれに似た出来事が有ったが
それは明日また違う観点から見て
関連させようと思う。



パレスティナ日記 3月2日 金曜日

今才能を育てると言う事。
これはこの国ではとても大切な事である。
例えばどの様にしてやる気をもたせるか、
これは日本、
もしくはアメリカで教えていたときの問題だった。
でも今この国で教えているときは
「この子達に何故やる気を持たせるのか、
 なぜ練習が必要なのか」
と言う事を教えなければいけない。
私は考えた、それに色々な教授に話を聞いた。
皆揃って答えた事それは
「パレスティアンとして生きる理由、
 パレスティアンとして認められる為」
と言う意見だった。
私はその話を聞くたびに感動して涙をしそうになった。
ここの子供達はジュウイッシュに
沢山のものを奪い取られ
沢山のものを捕獲されている。
例えばジュウイッシュの人が
100出来て認められることが
パレスティアンが認められるためには
大げさに言えば10000出来なければ認められないのだ。
そうじゃなければ認められないで
高校にも行かず働いた方が良いのである。
私はここに住みながら思った。
ここの子供達は
国の状況にも悩まされているだけではなく
才能を見ぬふりをしなければいけない、
希望を見ぬふりをしなければいけない。
そういう境遇で育っているのだ。
それはその子供達の親も同じ。
子供が一生懸命であっても
「この子には(私達)には無理だ」と続くのである。
これがこの国の現実である。
私はこの日記を書いている間でも涙が出そうである。
私はこの子供達の才能を救う事が出来ないのである。
きっとこれからも多くの子供達が
音楽家になりたくても
諦めなくてはならない状況になっているのである。
これは有ってはなら無い事であるのと同時に、
教育者である私達は精一杯教えるべきであると言う事。
でも自分がその地に居れない環境を
作っているのも同じ人間で有るということ。
その矛盾に心が痛むのである。
私はこの子供達の力になりたい。
でも今の自分では力不足である。
かといって後1年待ってくれと言ったら
その時卒業する子供達は
夢を諦めやはりいつもと同じような状況になるのである。
私は今の自分の不甲斐なさ、
力の無さに痛感せざるえない状況になっている。
私はいったい何を求めているのであろうか。
自分自身がもっと勉強したい。。。
それが多大を占めている。
フィンランドに行くがそれが一番の
今のプライオリティーで有るはずが
今この子供たちを目の前にして
子供達が一番のプライオリティーになりつつあるのである。
時間は待ってくれない。
私は勉強が今必要である。
子供たちのためにも。
でも子供達の成長は待ってはくれない。
でもやはり子供達を信じるしかないのである。
音楽家になりたいという心を捨てず、
練習をして欲しい、
自分を認めてもらいたいと言う心を
見失って欲しくないのである。
そう信じつつ自分は精進しなければならない。
来週から始まる集中講義。
一生懸命自分の為にも
それからこの子達の為にも
頑張らなければならない。
明日明後日が最終の授業である。
何だか寂しい。
この3週間あっという間であった。
素晴らしい笑顔に会った。
素晴らしい子供達、生徒に会った。
私が先生であると言う顔を見せる時と
皆と同じと言う顔を見せる時が必要なのである。
一人の人間であるから
出来る可能性を見せなければならないのである。
今回それを凄く感じた。
生徒達は私が先生だから「出来る」のではなく
「同じ人間なのに何故?」と思わせなければいけない。
それが原点であるのだ。
でもそれが一番大切なのかもしれない。
それを生徒達は教えてくれた。
無限の可能性である。




パレスティナ日記 3月3日 土曜日

今日は午前中から学校にて練習しながらパソコンをしていた。
今日は私がいつも
日本でリサイタルをする時に
伴奏をしてもらっている犬飼新之介君のリサイタルだった。
それの諸連絡や友達誘いが有ったので
リサイタルが始まるまで、
それから終わってか
ら友人にお礼のメールをしたりと
ちょっと距離は有るがお手伝いをさせてもらった。
同じ友人が頑張ると言う事は嬉しい事だな、
と感じた。
その後私は最後のキャンプに参加した。
シューベルトの未完成交響曲、
それからベートーベンの交響曲5番である。
どの曲もとても難しい。
私は今日は次の事を生徒達に伝えた。
首席奏者の意味、
副主席の意味、
オーケストラとソロの大きな違いなどである。
それからアンサンブルで何が大切なのか。
それを弦楽器セクションをしている時に細かく伝えた。
音が変わった。
生徒達がかすかに耳を使い始めている、
動き始めている、
それをかすかだが私は感じた。
生徒達も感じていると思う。
大きなステップだった。
その後が大切だ。
それを何度も繰り返し生徒達に聞くことの大切さ、
それから面白さを感じさせる。
それが感じられたらこっちのものだ。
後は生徒達に曲のイメージを聴き
それにあわせて指揮をしてみると言う試み。
そうして演奏してみて生徒達に違う意見を求め
「こっちが良い」
「良いや、これはどうだろう」
と試させてみる。
そうすることで曲に対する魅力を持たせる。
これも一つの方法である。
私は多くを試して多くを学んだ。
さてさて先週も来た指揮者が来てさて合奏だ。。。
いつもの何だか重たい雰囲気がある。
これは何だろうか。
そうして合奏…さっきまで有った音は何処に行く。。。
私は演奏していて悲しくなる一方だった。
彼女は「私は指揮者である」と言うスタンスを崩さない。
これがプロフェッショナルだったら必要かもしれないが、
少なくてもここには必要ないのだ。
それよりも寄り添い教えて行くのが
今の状態では必要な事なのだが。。。
何を勘違いしているのか、
ちっとも良くなっていかない。
耳が悪いのか、
指揮のテクニックが悪いのか、定かではないが、
子供達に何かを伝えたいと言う気持ちが感じられない。
子供達も彼女から何かを学びたいと言う
気持ちを感じないのである。
とても悲しい状態だった。
子供達の距離は縮まら無い…どころか遠くなっていく。
音楽も酷くなっていく。
これは本当に正直こんな演奏になるなら
私は演奏したくないというのが本音であるが
子供達だけをほってはおけない。
そうしてまたセクショナルが始まり、
さっきの事をまた繰り返す。
そして生徒達は手探りで
さっきやった音楽を思い出そうとする。
そうしてまたその音が戻ってくる。
そうしてベートーベンがなり出すのである。
そうしたら跡は指揮で、
手で伝えていく。
生徒達も先週は難しかったが
今週は私の指揮にも慣れて来たのか
私の欲しい指示通り出てくるようになって来た。
これはやはり続けていくしかないと思った。
彼女にもう少し時間をくれるように言って
弦楽をもう少しやった。
よくなった。お世辞ではなく。
そうしてまた合奏が始まる。
弦楽科の先生方も頭を抱え始めた。
「何故ここまで違うものに変化してしまうのか」
私も演奏していて頭を抱えたくなる。
どうしてこんなに揃わないのか。
心も技術も…ため息が生徒達から漏れてくる。
先生方からももれて来る。
練習後講師陣で飲みに行った。
勿論その指揮者は来なかったが…これが原因だ。



パレスティナ日記 日記3月4日 日曜日(授業最後)

明日から私はフィンランドに出向くが
今日は最後のパレスティナでの先生としての時間だった。
私は今回ここに3週間居て
本当に色々な事を体験して、
沢山学び、喜び、驚き、怒り、泣き。
色々な場面と遭遇して
自分の立場や自分の可能性を感じる事が出来た。
私は9月からは常勤としては来ないが、
でもいつでも客員教授としてこの学校には来ようと思う。
それはただただ子供の為に。
現実問題、
私にってこのパレスティナは住む所ではないと感じた。
子供達はとても素晴らしいし、
その子供達に色々伝えたい事が山ほどある。
ただ私が今ここに来たとしても1年もたないであろう。
それは音楽以外の事で非常に負担が多い事である。
ここの子供達はそれを難なくこなしているのだが、
私にはやはり心が休まる事が無いのだ。
しかも一人で。
自分がそこまで強くないのを良く知った。
チェックポイント、銃声、爆撃音、
それから夜中に鳴り響くお祈りの音。
私はこの3週間熟睡した覚えが無いのだ。
心配しすぎなのだが体が強張っているのだ。
子供達の為に居たいと思ったが
今のまま中途半端で
私がこの地に9月から来ても
精神的にやられてお仕舞いの様な気がするのだ。
先生の中には私の様な若僧は居ないし
一人でこの地に来ている人は少ない。
何らかの関係者が
イスラエルやパレスティナに居る人が殆どだ。
それに3ヶ月毎にパレスティナを出なければならない。
それはパレスティナ人には色々な権利が無いからである。
この学校もユダヤ人からは認められていないため
そこで働いている国際人(教授)達は
国的に認められていないのだ。
その度にヴィザのが切れる事に恐れ
近くの国に週末を使って移動し
ヴィザの更新をするのだ。
これはかなりの精神的負担である。
それに加えて住んでいる所も不安定だった
らこれは弱るであろう。
それが今の状態だ。
ここの子供達の為に私はここに教えに来たい、
自我自賛かもしれないが
きっと私はここに来ても役に立てる
それはこの3週間で良く解った。
と言うよりも必要とされている。
でも今私は自分のやりたい事、
すべき事を諦めてまでここに来たら
私は一生後悔するだろう。
それだけは避けたい。
人生は長いのだ、
もしここに来るようになれば
私は長いスタンスでここの学校の役に立ちたい。
だから少なくても3年はいたいと思う。
だから私が30歳になった時、
指揮の授業が終わってからでも良しではないか、
むしろそれの方がもっと
子供達の為になれるような気がするのである。
私の母と親友は私にこういった
「今そっちを選ぶと失うものの方が多い」
「今の自分のしたい事を見失わない方が良い」と。
私はここに来て物凄く影響を受けている、
冷静さを欠いているのかもしれない。
今この日記を書いている瞬間も
爆発音が鳴り響いているのだ。
慣れている自分が怖い。
パレスティナは素晴らしく良い所もある。
勿論危険である、
これは確かだし、
いやな目に会うことも沢山有る。
でも素晴らしい人も、
子供達も居るのだ。
これはまぎれも無い事実である。
私の今の仕事は今回経験した事などを伝えていく事だ、
それから時々パレスティナを訪れて指導をする事だと感じている。
そうして同時に勉強もしなければ、
と自分を奮い立たせている。
次は11日にパレスティナにコンサートの為に訪れる。
その時また11日、12日、13日と日記を書こうと思う。
どんなコンサートになるのか…ちょっと不安である。



パレスティナ日記 3月13日火曜日 最終日

今日が最後のパレスティナ日記になる。
ここ3日間私はインディアの近くのデュバイと言う街に行って来た。
コンサートの為である。
多くの出会いが有った。
イスラエル交響楽団メンバー、
観客それからなんと言ってもとても頑張った生徒達だ。
生徒達は本当に今回良く頑張った。
プログラム的にかなりの無理があった、
だから演奏会に出れない生徒も沢山いたし、
突然になって生徒の中にヴィザが取れず来れなかった生徒も数名いた。
そんな現実を見せ付けられながらも
子供達は今出来る最高の努力をして(そう願う)演奏会に参加していた。
私が到着したら拍手が起きた。
子供達はやはり待っていてくれたのだ。
そうしてヴィオラセクションに座り
演奏を始め沢山の子供達と目が合う。
皆笑顔を返してくれた。
音楽家としてではなく人として嬉しくなった。
そうして指揮台にも乗った。
今回学んだことを精一杯利用しながら子供達と接することが出来た。
やはり私にはまだまだ勉強が必要だと確信した。
なぜかというとたった五日間の研修でも
自分の中に各自な物が出来ているからだ。
これは本当に今回物凄く実感できた事だ。
それから自分の中に良い意味での自信が出来ているのと
もっと多くの人を受け入れられるようになったのかもしれない。
これは本当に大きな成長のような気がする。
そうして今日生徒達と一緒にパレスティナに帰って来た。
生徒達は「来年は来てくれるのでしょう?」やはり始まった。
皆少なからずと私が来るのを待っていてくれている。
私は常勤はお断りをした、
ただマスタークラス、
パレスティナ音楽祭、
モーツァルト音楽祭、
サマーキャンプ、
室内楽集中講義の講師として、
指揮者として学校側からの熱い要望にこたえることにした。
今回学んだこと。
世界は広いと言う一言に尽きる。
何を言っているのと思われるかもしれないが本当にそう感じた。
それは深い意味で。
これはどういうことかというと
その場その地域によって生き方(価値観)が違い、
環境が違うと言い、
それから命の重さが違い、
抱ける夢が違い、
それからどんな場所にも危険があり平和が有る、
どの土地にも死者もあれば誕生する命もある。
その次には教育と言うものがどの国にもあるのだという事。
教育の方針が違っていても教える
イコール教わると言うことがとても大切で有るということだ。
教育は何の為にするのか、
ある子供が言った「生きるため」だと。
私は目からうろこだった。
私は
「お金のため」
「地位の為」
「良い会社に勤めるため」
等の意見を聞く事に耳が慣れていたからだ。
ここに居る子供達は少なくとも
そう思いながら勉強をしているのだ。
私はこの子達の力になりたい、
本当に心からそう思う。
私は明日ドイツに帰る。
いったいどんな自分になっているのか。
あまり変わっていないようなきもするが、
何が一番変わったか
「生きたい」と凄く思うようになった。
与えられた運命の短い時間の中で必死に生きたいと思った。
そう思ったら練習がしたくなった。
指揮を振りたくなった、
そうしてもっと色々な国に行って
色々な人達と音楽がしたくなった。
私の人生はきっとそういうものになる様な気がする。
飽き性の自分にとってはとても好都合ではある。
自分らしく、
真っ直ぐに、
一生懸命生きたいと心から思う。
パレスティナに来て良かった、
心からそう言える。





この度は私の我儘で
皆さんが反対をしてくださった中
それを押し切ってパレスティナに行ってきました。
反対をして下さった中でも
皆様は本当に私を温かく包み、
応援をして下さっていました。
そのお陰で私も1ヶ月と言う滞在の中で
研修もありましたが本当に多くを学び命の尊さ、
生きると言う事、
一生懸命尽くすと言う事を心底知ったように思います。
いくら計画をしても
明日どうなるか解らない中での教育は
本当に一日一日が勝負でした。
子供達に将来はあります、
でも確実にその夢をかなえられると言う約束は無いのです、
その約束を出来る、
自分の中で決断をする環境が無いのです。
それは何が原因か「争い」なのです。
それは大きな物から小さな物まで親から受けた影響、
国が取っている方針、
などがその自分の夢、
希望を打ち砕いていくのです。
時には1年、2年、3年積んだ努力の成果を
発表する場をも政府は奪うのです。
これは演奏会2日前に起きた事でした。
子供達は文句を言えないのです。
私達も何も出来ないのです。
そのような環境が続く中で子供達は
「努力をしても…」と思うようになり、
夢を持てなくなるのです。
それは子供達だけではありません。
私達教育者の中にもありました。
一生懸命指導をして良い出来上がりで演奏会を企画しても
突然争いが始まり
演奏会をキャンセルしなくてはならない環境になるのです。
今回は演奏会当日にそれが起こりました。
切ないのと同時にやるせない気持ちで一杯なのです。
私はそんな中でも
一生懸命伝えられる事をしてきました。
それは
「心から接する事」
この一語を毎朝学校に行く前に
私は自分に言い聞かせていました。
良い事ばかり言うのではなく
殆ど私は文句を言っていたように思いますが
でも心から意見をしていました。
それは学校の為ではなく
あくまでも生徒達のためなのです。
まだまだこれからの学校ですが
他の国で音楽教育をするのより遥かに難しい環境です。
紛争地域です。
そん中なぜこの子供達はあんなに良い笑顔が出来るのか、
どうして他の人の事に気を使えるのか、
きっと今の私だったらそんな余裕ありません。
それは子供達は良い意味でも悪い意味でも
「慣れ」がそうさせているのです。
銃撃戦が有っても爆撃が有っても自分がどうすれば良いか、
それを本能的に解っている。
私も実際に紛争を初めて体験しました。
本当に終わりかと思いました。
でもその時私は子供達に救われました、
そうして日本から、
アメリカから、ヨーロッパからの皆様の祈りに助けられました。
だからこそまた
あの子達の所に戻って教えてあげたいと思いました。
皆さんにまたご心配をかけるかも知れません。
是非一度パレスティナに来てみてください。
ある意味平和です。
私はとても好きになりました。
勿論食事の環境や色々な問題は有るかと思いますが
でも楽しく過ごせます。
そうして素晴らしい生徒達と出会えます。
私はこの地にくる前
本当に色々な覚悟をしてきました。
だからこそ得られた体験であり経験であったのだと思います。
皆様の本当にお陰さまでございました。
有難うございました。
この事はこれからも沢山の人々に語りかけていきたいと思います。
そうして何らかの形でこの学校を、
子供達を支援していけるような事も考えております。
私は年に3,4回の割合で
パレスティナに行く事になるかと思います。
皆様、本当に有難うございました。
心より御礼も仕上げると共に
これからも宜しくご支援の程をお願い申し上げます。