「パレスティナ音楽奮闘日記」
この日記は週に1回の割合で
更新して行きます。


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パレスティナ音楽奮闘日記 2008年 9月19日
最後に
私がパレスチナと関わりを始めて、
私は多くの方々にご心配をお掛けした事に今更になり、
よく感じる今日この頃でございます。
最近ニュースを見ておりますと
「ボランティア」、「報道機関」の方の
無残な死を目にすることがございました。
私がいたパレスティナは、
そこまで毎日紛争があるわけではなかったとしても、
危険なところであるということには変わりはございませんでした。
今私は無事に帰国する事が出来ました、
だから故に今ここでお話する事が出来るわけでございますが、
ボランティアというのは本当に難しい課題のように思います。
何も見返りを考えず、自分が出来る最高の支援をする、
それを自己責任の上でということそれがボランティアだと思います。
時にそれは自己満足で終わりえることもある。
その事も考えておかなければなりません。
私はボランティアではありませんでしたが、
今この世界には沢山のボランティアの方々がおります。
その中には軽い気持ちで行く方もいると聞いたことが有ります。
何が起こっても誰のせいにもできないのです。
してはいけないのです。
なぜならば自己責任だからです。
私は日本からパレスティナに行く時
自分はボランティアではなくてもそう決心をして行きました。
自分がもしもの時を考えて文章も残していきました。
ただの手紙ではなく色々な連絡、手続きについてもです。
私は音楽を教えに行っておりましたが
ボランティアではないにしてもとても強い心構えが必要でした。
そんな事を思い出しながら、
最近自分がどんな状況の国に音楽を教えに行っていたのか、
そしてさらにその様な国に
音楽を愛している子供達が沢山いるという現実が
有るということを再確認いたしました。
私はこれからも学校との関係を続けてまいります。
そのことも大切ではあるのですが、
今私はこの様な状況をもっと多くの方々に
知っていただけるような機会も増やしていければと思っております。
講演会と演奏会活動、
それから指導などもそれの一環としていければという思いもあります。
それは私が生まれ育ったこの日本でもです。
この経験から「今を演奏する」という心がけも
変わってきたように思いました。どういうことかと申しますと、
「いつかまた演奏できる」とか
「いつか直せば良い」とか
そういった考えを少なくしていこうという心がけでございます。
私はとても弱い人間でございます。
今まで何度と逃げ出そうとした時がございました。
でも、それはとても不幸で有ると考えるようになりました。
私が携わった子どもたちはとても一生懸命でした。
真っ直ぐでした。
なぜなら、楽器を持てること、
音楽が出来ることに感謝を出来ているからでした。
大変な国状況の中で
自分の親が如何に苦労をして自分に音楽をさせているか、
という事もわかっているからです。
私は生徒達から多くの事に気づかされました。
それを私は一生大切にして参ります。
皆様、本当にいつも応援してくださいまして有難うございます。
心より御礼申し上げます。
私があちらにいる時、
共同通信様より記事が出ました。
その記事を最後に載せさせていただきたく思います。
その時撮っていただいた素晴らしい写真も載せたいと思います。
写真の方はPHOTOからご覧下さい。
演奏楽しむ子どもに感銘
パレスチナの日本人教授
バイオリニストで指揮者の阿部真也さん(28)が、
パレスチナ自治区で音楽指導者として奮闘している。
「演奏を楽しむという本来の音楽の姿勢を、
子どもたちから逆に教えられます」。
六月には専任教授を外れるが、
今後も年二、三回、客員として教授を続ける予定だ。
「隣の人の音をもっとよく聴いて。ワン、トゥー、スリー、オーケー」。
弦楽器の上級レッスンで、
阿部さんの指示と演奏練習がテンポよく進む。
「音程が少し違っても注意しません。
一緒に弾いているうちに気付いて直すこと、
みんなと楽しむため練習しようと思うことが大事だから」
阿部さんが活動するのは、
パレスチナ出身の思想家の名を冠した「エドワード・サイード音楽院」。
昨年二月、生活拠点があるドイツの恩師から紹介され、
客員教授を一カ月務めたのが始まりだ。
イスラエル占領下のパレスチナは、
日本や欧米と全く違った。
深夜に銃撃戦で目が覚める、
危険と隣り合わせの生活。
楽譜や講座の不足。
一方で、コンクール入賞を目的とした技術至上主義でなく、
子どもたちは演奏を楽しんでいた。
「日本で忘れていた音楽の意味を実感したんです」
と阿部さん。
予定期間が終わった後、
学校から専任教授就任を要請された。
日本やドイツでの演奏活動中断や、
多くのユダヤ人が活躍する米音楽界での
今後の活動への悪影響を懸念する声も周囲から出たが、
生徒から「シンヤのレッスンを受けたい」と多くの電子メールをもらい、
昨年九月から同音楽院ベツレヘム分校の専任教授となった。
契約では個人レッスンを中心に
週五日の活動だが、
それ以外のイベントなどでほぼ毎日学校に来る生活。
生徒の一人ラニ・リシュマウィさん(24)は
「シンヤは弾く技術が高いし、
物事を生徒に伝えようという情熱がある」
と信頼を寄せる。
自らのバイオリニストとしての技量向上とバランスを取るため、
六月から拠点をドイツに戻すが
「ここで子どもたちから教わった音楽への姿勢を
忘れるべきでないと思うし、今後もかかわっていきます」
と言う。
阿部さんはホームページで、
現地の生活を「パレスティナ日記」として公開している。
アドレスはhttp://www.abeshinya.jp
(ヨルダン川西岸ベツレヘム共同=長谷川健司)
【編注】あべ・しんや▽北海道上川郡剣淵町出身
パレスティナ音楽奮闘日記 6月4日
本日で私の任期が終わります。
始まりは2007年2月14日でした。
パレスティナに決死の覚悟をして入国し、
色々なことを体験し、
素晴らしい生徒達に出会い、惹かれ、
そうして8月に再入国をして教授に就任。
それからは目が回るような忙しさでした。
でもいつも生徒達に癒されながら、
時には頭を悩まされながら
私は向かい合ってきました。
それも今日で一時終了です。
先週室内楽のコンサートが有りました。
生徒達は精一杯演奏しました。
とてもいい笑顔をくれました、いい音をくれました、
何しろ皆が楽しんでいました。
着たい服を着て、好きな曲を弾いて、
親達は喜び、私は本当に感無量でした。
演奏しながら微笑み合う生徒達を見ていると、
本当に音楽は素晴らしいものだな、と思いましたし、
こうでなくてはならないと思いました。
それから次の日は私自身のコンサートでした。
学ぶことが多くあった演奏でした。
お客様はびっしり、
多くの方々に見守られながら演奏できました。
イスラエル在日本国大使ご夫妻、
職員の方々、それから共同通信様、時事通信様、
日本ボランティアセンターの方々をはじめ、
多くの方々にお越しいただきました。
とても心強く、1年半で多くの方々に出会ったな、
と改めて実感しましたし、
皆様の暖かい心に目頭が熱くなりました。
多くの花束を貰い、沢山の暖かい拍手を頂きました。
帰り道に私はこう感じていました。
私は生徒達に教えさせられていた、ということです。
なぜなら生徒達が素直に頑張るからです。
音楽をしたいから頑張るのです。
そんな姿に私は動かされていました。
私はこの生徒達の事をずっと支えていきたい、
携わっていきたいと思います。
そうしていつも私は生徒達に目を覚まさせられて
音楽にまた向き合えると信じます。
パレスティナに来れて私はとても幸せですし、
本当にかけがえの無いものを得たように思います。
それから多くの方々に支えられながら
ここまで来れたと思います。
日本に帰り、落ち着きましたら
まとめとしてこのホームページで
エッセイを書こうと思います。
私と生徒達の音楽への挑戦は今始まったばかりです、
これからも音楽を通じて生徒達と向かい合い、
自分と向かい合い、
精進して参りたいと思います。
さ、最後の授業に行って参ります。
皆様、今まで本当にご心配をお掛けいたしました。
これからも応援の程を宜しくお願い致します。
パレスティナ音楽奮闘日記 5月26日
今週は二つコンサートを控えています。
一つは生徒達の室内楽コンサート。
7組の室内楽グループが演奏をします。
ヴァイオリンの二重奏から始まり、
ヴァイオリンとピアノの二重奏、ピアノ三重奏、
フルートとヴァイオリン三重奏、ピアノ四重奏、弦楽四重奏、
それから弦楽合奏です。
今年初めての試みだった為に本当に大変でしたが、
何とか生徒達が頑張ってくれたお陰でここまでこれました。
場所は学校なので
いつも練習している場所でのコンサートです。
きっと素晴らしい音が響くのだと思います。
このご報告はまた来週!
それからもう一つは私の最後のリサイタルです。
ヴァイオリンとヴィオラを演奏します。
ピアニストはイギリス人のピアニストです。
私はこのコンサートを最後にここの学校を離れます。
勿論6月4日までは最後の指導をしますが、
私にとって集大成とも言えるコンサートです。
曲目はブラームス、それからフランクです。
私達指導者にとって練習時間を確保するというのは
容易ではありませんでした。
でも時間は自分でやりくりするもの。
何とか毎日朝の時間を有効に活用してまいりました。
それからリハーサルも
ピアニストはラマーラという町に住んでおりますので、
なかなかベテラハムまで来てもらうのは大変なことでした。
普段コンサートをするのに問題ではない事が大変だったりしました。
楽譜もそうですが、演奏したい曲がなかなか無かったり、
だから故に今演奏できる曲に真剣に向かい合えたともいえます。
普段何気なく選曲している自分には色々な事に
気づかされたとても大切な機会でした。
色々な思いが有るコンサートです。
この地、パレスティナにヴィオラの音を、
ヴァイオリンの音をしっかり演奏しようと思います。
多くの方々が応援に駆けつけてくれることになり、
私も心強くあります。
最後まで日本から来た一人の音楽家として、
丁寧に音を奏でて まいります。
皆様、日本、ドイツで、
はたまたアメリカで応援宜しくお願い致します。
パレスティナ音楽奮闘日記 5月20日
試験も無事全て終了し生徒達の気がぬけかけている中、
私は強行スケジュールを発表しました。
それは毎週集中室内楽、
弦楽オーケストラの授業をするということです。
この学校では「オーケストラの授業」
というのはやった事が無いという事で
異例ではあったのですが、
私が中心となりこのベテラハム校だけで
弦楽オーケストラを作り、
毎週金曜日のお昼にやる事になりました。
今まではイベントがあったりするとオケが立ち上がり、
演奏会に向けて特訓を行い
コンサートをしていくというのがやり方でした。
それではなかなか技術も知識も培われないのではと思い、
私が今回始めました。
その第1回目が先週有りました。
弦楽合奏の目的の一つは初見演奏力をつけること。
それからオーケストラの意味、
練習の意味などをメッセージ的に伝えていくことです。
それからもっとも大切な事「責任感」です。
自分が間違うと友人に迷惑をかけるし、
楽しい授業にならない、
だから練習する責任が有る、
といったように口で説明するのではなく、
自ら感じ学習するというやり方を取りました。
その成果はもう見えてきました。
私の生徒で合奏中弾けていなかった子が、
レッスンでこの曲をみてください
とオーケストラの曲を取り出しました。
嬉しい展開でした。
しかしながら準備はとても大変でした。
でもお他の先生方の協力や、
やりたい曲の楽譜が無い事から友人に協力を仰ぎ、
スキャンしてもらったり、
ピアノ譜からパート譜を製作したり、
多くの方の協力を頂きました。
そのお陰さまで多くの曲の準備が出来ました。
先週はグリーグ作曲:ホルベルグ組曲、
モーツァルト:小夜曲、
ヴィヴァルディー:2台のヴァイオリンのための協奏曲でした。
来週はパッヘルベル作曲:カノン、
モーツァルト作曲:ディヴェルティメント136、
ヴィヴァルディー作曲:4台のヴァイオリンのための協奏曲です。
これが定着して来年も続けてくれればと
心から思いながら精一杯やります。
それから室内楽では
モーツァルト作曲:クラリネット三重奏曲、
ヘンデル作曲:三重奏ソナタ、
モーツァルト作曲:ピアノ四重奏ト短調、
シューベルト作曲:弦楽四重奏「ロザムンデ」、
ビゼー作曲:ヴァイオリン2台とピアノの為の「カルメン」
などなどです。
他にも私のヴァイオリン、ヴィオラの生徒全員が
デュオ、トリオをしています。
演奏会も企画します。
5月30日です。
私のリサイタル前日です。
私は最後まで多くの方々の助けを借りながら、
協力して生徒達と音楽をします。
この日記も後2回です。
この1年、生徒達の成長に目を見張るものが有りました。
とても嬉しくもあり、
もっと続けることが出来たらという気持ちも心のどこかにあります。
でも私はその為にも今は自分の精進が必要と決断しました。
きっと生徒達も理解してくれると信じています。
なぜなら彼らは今一生懸命に音楽と向かい合っているからです。
素敵な目をしています。素敵な演奏をします。
いつか皆様に聴いて頂きたいです。
パレスティナ音楽奮闘日記 5月13日
昨日私が携わる全ての生徒達の
試験が終わりました。
こればかりは世界共通で、
緊張のあまりに
学んだこと全てを失ってしまう子どももいたり、
そうかと思えば緊張って何?
の様な子どももいて、
いつもは弾けていないのに最高の演奏をしてしまう。
色々な光景を目にしました。
特に昨年の8月後半からは子供達にとって、
この試験の為に頑張ってきたといっても
過言ではありませんでした。
なので良い評価を貰うという事は、
とても大切なことだったようでした。
でも生徒達に伝えた事があります。
それは「音楽は試験のためではない」という事。
試験は一つの過程でしかない。
音楽は「喜び」ではなくてはならないという事です。
ヨーロッパにいる時、それからアメリカに
いる時に思ったことは
「ここの人達はさほど評価を気にしていない」
ということでした。
私が大学の試験を受けて評価を貰ったときに、
周りの人達は
「いい演奏できた?」
とは聞いてきてくれたけれども
「評価は何だった」
とは聞いてきませんでした。
ドイツに渡り指揮の試験や評価をもらう場面でも
「良い指揮できたようだね」
といわれましたが評価は聞かれませんでした。
私の友人達も評価よりも何よりも自分が何を得たか、
学んだかが何よりも大切だ、
という話をしているのを聞いて、
感動したのを覚えています。
そうして次に何をしたいか、
という事まで話していました。
日本ではどうでしたでしょうか・・・
私の両親はさほど評価を気にする親ではありませんでした。
通知表はたいした重要ではなかったのを思い出します。
でも周りの級友達は私がどういう評価だったか、
自分と比べてどうか、
という「競争心」みたいなものがあったのを思い出します。
「競争心」といえば聞こえは良いかもしれません。
ここパレスティナでもそれがとても多くありました。
自分の上に誰がいて、
逆に下には誰がいるのか。
それを知る必要があるようでした。
その光景を見ながら「国の状勢」を視ているようでした。
この国パレスティナはイスラエルに占領されつつあり、
常に誰かが上にいる中で育つ子供達は
自然とその支配下で自分よりも下の人を探そうとする。
この状況は変わることはないのかもしれませんが、
少なくても音楽をするときは何よりも
「音を楽しみ演奏する事」
を残りの3週間で伝えていければと思います。
3週間というのは時間としてとても少なすぎるとは思いますが、
私はこれからもここの学校に携わり
自分が出来ることを微力ながらも続けて行ければ良いな、
と思います。
「音楽は音を楽しむ」ものであると思います。
それは自分にとってもとても大切な事で、
とても忘れがちになってしまうことです。
パレスティナ音楽奮闘日記 4月29日
先週私は久しぶりに演奏者としてのツアーがありました。
とても勉強になった時間でした。
そのツアーの後で子ども達の合宿にも駆けつけて
オーケストラの指導も2日間に渡り行ってきました。
このオーケストラはエルサレムユースオーケストラといって
全員パレスチナ人でした。
一番小さな子どもは6歳、
そうして一番大きな子は25歳だったでしょうか。
子どもといっても私よりも2才年下です。
この合宿ではアラブ音楽を
オーケストラの為に編曲をしたもの、
それからモーツァルト,
チャイコフスキーなどが課題でした。
私達にとって、
モーツァルトやチャイコフスキーといったら
誰でも一度は耳にしたことのある作曲家の名前で、
その中でもチャイコフスキーのくるみ割り人形を、
モーツァルトのロンドを練習していたのですが、
いずれも名曲中の名曲だと思うのです。
でも子ども達は知りませんし、
くるみ割り人形って?という感じでした。
私は講師陣に声を掛け、合宿中にモーツァルト、
チャイコフスキーを弦楽四重奏で
子ども達のために演奏してあげる事にしました。
その中でくるみ割り人形を説明し、
モーツァルトのロンドを説明し、
心を込めて演奏しました。
くるみ割り人形の演奏を始めると
子ども達は踊りだしました。
子ども達はこの音楽が大好きになったようでした。
曲名をいえる子ども達はまだ少ないですが、
何よりも音楽が子ども達を動かしたのだ、
と確信しました。
演奏会は28日でした。
案の定その合宿の成果は
この週末により何処かへ行ってしまっていました。
子供達は最初の音を出したとたん怖がってしまったのです。
大きなホールですから上手な演奏を聞いてもらいたい、
下手な演奏はしたくない、
と思い始めたのです。
私はそれに直ぐ気が付きました。
自分達の音のあまりの酷さに子ども達は
「この曲は嫌い」と言い出しました。
でも、私は断固としてこの曲を演奏させました。
その意味は、
子ども達に上手に演奏するために何が必要か、
それを学ばせたかったのです。
それは「練習」という二文字です。
音楽を楽しく演奏するためには、
そのステージに立つには「練習」が必要であるという事。
練習してこなかったのだから恥をかくのはあたり前、
という現実を見せたかったのです。
ここの子ども達は、
とても大変な状況にいることは間違いありません。
でもその状況を取ってしまった時に
どういう姿が残るでしょうか?
私には次の様に見えるのです。
厳しい境遇だから許される部分が多いこの地で
それがなくなった瞬間、
今まで許されていた事が許されなくなる。
世界で常識とされる事を急に要求されるのです。
その時に今教育に携わっている我々の責任になるのだ、
と思うのです。
どのような状態であっても、
正しいと思われることを教えなければならない、
ですから私は昨日心を鬼にしました。
そうして演奏終わった後
子ども達はいつもの笑顔になっていました。
そうして私にこういってくれたのです。
「私今度はもうちょっと練習する」と。
そうしてここの子ども達がもっている
大切なことを私は彼女に伝えました。
「楽しむためにね。
上手に演奏するためじゃなくて楽しむためにね」
と。
気持ちの良い疲れと共に私は帰宅をしました。
大きな花束をステージで呼ばれたときに貰い、
それを丁寧に生けました。
今朝はその花が私を迎えてくれました。
パレスティナ音楽奮闘日記 4月22日
私が日本に発ったのは3月21日、その日の朝の事です。
タクシーの運転手を部屋で待ち、
夜中の12時半頃迎えに来ました。
空港までの途中、心臓が止まりそうな出来事がありました。
私と彼は色々な話をしていました。
日本の風景や、イスラエルの事、その時です。
5人ほどだったと思います。
銃をもった軍人達が私達の車を目掛けて
銃を向けて走ってやって来たのです。
私は「頼むから日本に帰してくれ」
と心の中で手を合わせてしまっていました。
運転手は動じず車の窓を開けてなにやら冷静に話をしています。
私達は誘導されて
私のパスポート、彼の身分証明書を提示しました。
心臓がドックンドックンしていました。
5分ほどたって軍人が、
先程の血相を変えたような顔からは
想像出来ないほどの笑顔で私達に謝罪しました。
そうして無事私はパスポートを返してもらい、
空港へと向かいました。
理由を聞くと、パレスティナ人が4人射殺された事件のときに、
パレスティナ人に成りすましたイスラエル人が
私達が乗っていたタクシーと同じ色のタクシー(白色)に乗り
ベテラハムに入りそうして病院で
4人を射殺したという事らしいのです。
だから今頃、警戒を強化していたようです。
もしタクシーの運転手が大げさに反応したり、
そのまま止まらず乗り切ろうとしたら
私達は間違いなく撃ち殺されていただろう・・・
と空港に到着までの間話してくれました。
彼曰く
「ちょっとしたスパイスだったでしょう?
これも日本人達に話せるね」
私はせっかくシャワーに入ってきたのに、
汗をかいてしまって、心臓が飛び出しそうで
それどころではありませんでした。
私は空港に着きセキュリティー検査を受けました。
そこでさらにスパイスを得ました。
日本で使う携帯を見事に折られたのです。
そうして色々な質問を受けました。
次の質問で私が
バレンボイム教育プログラムの人間だと分かったとたん、
彼らは一変するのです。
私はある部屋に通されて
一般の人が何箇所も回って身体検査をするところ、
私はその部屋で全ての検査をすることになりました。
そうして温かいコーヒーを振舞われました。
深く考えず私はそのたった何時間かで起きた出来事を整理すべく
日本へと発ちました。
今私は6月までの最後の任期のためパレスティナに帰ってきました。
今回空港に到着して入国審査の時に何ともスムーズでした。
質問は
「何の為に入国しますか?:音楽ボランティアです」
「どのくらいの期間ですか?7週間です」
「何処に泊まりますか?エルサレムのYWCAホテルです」
「誰がこのチケットを買いましたか?収入は有りますか?
:全て自らです。収入は有れば良いのですが・・・」
「今後入国する予定はありますか?:ありません」
「入国は何回目ですか?:4回目です。」
「なぜ4回も1年間の間で?
:なぜなら子供達が本当に美しいからです。ただただそれだけです」
「本当に収入は無いのですか?銀行などを調べますよ
:私は銀行口座など持ち合わせていません。
なぜならその必要が無いからです」
この質問を最後に私は無事に通されました。
丁度2ヶ月のスタンプを貰ってです。
この中には嘘もありました。
でもそのストレスももうおしまいです。
6月に任期終了ですから。
パレスティナ音楽奮闘日記 3月19日
私は今週、日本に一時帰国をします。
ヴィザの更新、それから演奏会などがあるためです。
先週、ここベテラハムでイスラエル人により
4人のパレスチナ人が射殺されました。
とても残念な話でした。
最近ガザでの出来事といい、
エルサレムの無差別射殺事件といい事件が耐えません。
そうして決まって
そのような事件の後にはストライキが起こります。
学校、オフィス、お店、全てが閉まってしまうのです。
先週その4人が射殺された次の日、
ストライキだったのは知っていたのですが、
学校からの連絡が無かったので私は学校へ向かいました。
不気味なほどに静まりかえった道には人もほとんどいません。
タクシードライバー達は学校の前で待っている私に
「今日は学校はないよ」と話をし、
しまいには自分のタクシーを使え、と言います。
私は断り続けて30分近く待ち、
家に帰ることにしました。
帰りのタクシーの中で運転手が
「私達はただ平和に暮らしたいだけ。
私達はもともとのパレスティナの土地を守りたいだけ、
殺された彼らだって、ただそれだけだったのに。」
と無念そうに涙を流
しながら話をしてくれた。
私は色々考えさせられました。
音楽は国を平和にする、というフレーズがありますが、
私はそれは違うのではないかなと思い始めました。
音楽は平和にはしない。
演奏家は平和を担いでは来ない。
ただ人々に例えを表す事はできる。
演奏している姿を聴衆は見て何かを感じ、
それに対して行動を取って、
問題を解決していく事で結果的に平和になる。
という事はありうると思うのです。
私はここパレスティナに来たもっとも大きな理由は、
イスラエル人でもないパレスティナ人でもない自分が、
ただの音楽人として音楽を教えに来たい、
西洋音楽の素晴らしさを感じてもらいたい、
という事でした。
私が日本でも、ヨーロッパでも、
アメリカでもイスラエルでも音楽に動かされ、
音楽を心から演奏できているという状態を
周りの人々に見てもらう、感じてもらう。
そういう事がここパレスティナでも出来るんだという事を、
人々に感じてもらいたい。
それが子供であっても、大人であっても、
何人であっても出来るんだ、
という可能性を見つけて欲しいと思っています。
そのために私は任期修了まで精一杯演奏します、
精一杯教育します。
そうして精一杯課題を提示できればと思います。
パレスティナ音楽奮闘日記 3月3日
私は3月7日に控えている
大きなコンサートに向けて指導が
いっそう忙しさを増しています。
まだ演奏する事に慣れていない生徒達にとって、
何が一番の緊張を沈める薬かというとそれは
「レッスン」なのです。
どれだけ指導者が一緒に向き合ってあげるか、
という事です。
私も殆どの生徒達の伴奏を
一手に引き受けているのでピアノの練習、
それからオーケストラの指導(これがまた大変)、
急遽舞い込んできた室内楽集中講習会、次
の週に控えている指揮実技試験の勉強等があります。
それから日々の自分の練習というように、
如何に自分の時間を過ごすか、
これはとても良い勉強になります。
今回は前回お話したチェリスト君に加えて
ピアニスト君のお話をします。
私の一番優秀なピアノの生徒が
ロンドンの名門「ギルドホード音楽院」に合格しました。
これから多くを学び、成長する事間違いない、
と私は喜びに満ち溢れていました。
金銭的な問題は山済みですが、
その様な問題とも向き合える、強い少年です。
そんなピアノ少年、ラムジー君、
それからチェロ少年、ナシーム君が
私の所にやってきてこういいました。
「真也、来年帰ってこないと聞きました。
もっと貴方から私達は学びたい。
二人で話し合ったのだけれども、
貴方と直接室内楽を演奏させてもらいたい。
そうして直接指導してもらいたい。
音楽の指導をしてもらいたい。
本当の室内楽を教えてもらいたい」
というのです。
私は「じゃあ、一緒に音楽をしましょう」と伝えました。
ただでさえ休みが無い私は、
今のスケジュールに加えて彼らの室内楽を
プラスアルファする余裕が無い事は分かっていましたが、
真剣な眼差しと意欲に負けてしまいました。
そして翌日私は朝早い講義に出向き、
彼らは練習をしていました。
彼らに渡した曲は
「メンデルスゾーン:ピアノ三重奏曲1番1楽章、2楽章」でした。
私はこの曲から多くを学びました。
多くの素晴らしい演奏家の演奏を聞きました。
多くの感動、刺激を得ました。
私にとってはバイブル(経典)のような曲です。
2時間の講義で私は声がカラカラになり、
彼らも疲れきった感じでした。
伝えたいことは「聴く」という事。
「演奏したい」「聴きたい」という気持ち、
姿勢を感じてもらう、ということです。
私達はこの曲を来週演奏します。
私はまだ本当に室内楽が何かなんてまだまだわかりませんし、
それを追求するためにこれからも精進し続けるのです。
でもはっきりと分かるのは
「心が通う音楽」が室内楽であるということ。
全ての音楽に通づると思いますが、
その意味を自分が真正面から彼らと接して、
心から音楽をしている姿から、
いつか何かを彼らに感じてもらえれば、
と心から思っています。
この次は私ともう一人のヴァイオリンの先生の
二人でピアノ四重奏を指導することにしています。
今出来るだけの経験をさせてあげたい、
ともう一人の先生も思っていたようです。
課題は「モーツァルト:ピアノ四重奏」。
言葉では表現しきれない事を
共に演奏することで伝えられればと思います。
でも疲れるどころか今となっては彼らと演奏することが、
一週間の疲れを癒す大切な薬の一つになっています。
パレスティナ音楽奮闘日記 2月20日
先週より私は休暇がない日々を過ごしております。
日々のレッスンをしながら生徒達の演奏試験の審査、
オーケストラトレーニング、
15日にはこちらに帰ってきて最初の演奏会がありました。
生徒達の演奏、それから私も演奏しました。
先ずは、生徒達の演奏試験のお話しです。
今回試験を受けた生徒の中でチェロの生徒がいました。
彼は16歳。チェロを始めてもうすぐで5年、
とても才能の有る少年です。
一昨年私がこちらに来て室内楽を教えたときに
「将来はチェリストになりたい」と言いました。
今回もその言葉を何度も聞きました。
私は試験の時その言葉を心にとめて演奏を評価しました。
音階、練習曲、バッハ、小品、と4曲を聴きました。
彼は今まで最高評価A+しか取った事がなかったらしいのですが、
私はBという評価をつけました。
結果的にはA−が付いたようですが、
彼には初めての評価だったらしく、
その後「何が悪かったのか」と私に聞いてきました。
私は正直に
「あなたはパレスティナに住んでいる、
だからそれだけ弾ければ皆がびっくりするし本当に珍しい。
周りもちやほやするだろう。
でも世界に出た時にこの程度では何も出来ない」
と言う事を伝えました。
この地では音楽を専門的に勉強するというのは本当に大変な事です。
金銭的にも、精神的にも。
もし今回の評価で嫌になってしまうのであれば、
それの方が良いと私は思ったのです。
しかし、その次の日から彼は私に色々質問をしたり、
音階練習を聞いてほしいといったり、
とても積極的になってきました。
嬉しい変化でした。
私もこの様に指導しながら我が身を見直しております。
次にオーケストラトレーニングンのお話をします。
今回のオーケストラはジュニアオーケストラの指導です。
年齢は8歳から20歳くらいでしょうか。
曲目はチャイコフスキーの
くるみ割り人形の中から一曲、
モーツァルトから一曲ですが、
皆様が思っているフルオーケストラと違って、
楽器が少ないので色々な楽器が寄せ集めという状態です。
さらに弦楽器の生徒達は
オーケストラが初めてという生徒もおりますので、
本当の初歩から教えています。
毎日忍耐と、指導方法のことで家に帰り、頭をひねっております。
最後に15日にあった演奏会の事です。
私の生徒は7名演奏しました。
今回私が1月下旬に戻ってから
約3週間で仕上げた生徒達が一生懸命演奏しました。
着実に生徒の中で「演奏する事の喜び」が
大きくなっている事が分かりました。
次の大きなコンサートは3月8日です。
また、生徒達にとって
確かな一歩になれるように
心を込めて指導していきたいと思います。
パレスティナ音楽奮闘日記 2月14日
私は昨年の今日、初めてこの地を踏みました。
そして1ヶ月間客員教授としてエルサレムを訪れ、
指導、コンサートをするなど多忙な1ヶ月を過ごしました。
ここに来る時には大きな決意をして、
そしてこの地を離れる時にはある決断をしました。
その決断とは私はこの学校に教授としてくることを断り、
客員教授として来るということでした。
私は今朝起きた時にふと天井を眺めながら
今自分が何処にいるのか考えました。
そして不思議な気分になりました。
今私は教授として1年の半分以上を
このパレスティナで過ごしています。
室内楽、オーケストラ、それから個人指導、
毎日があっという間に過ぎてしまう、
そんな毎日を過ごしています。
またヴィザの関係で私のこの1年の生活は
日本に頻繁に戻りこの地に来るというとても大変な生活でもあります。
私は2年間の契約を1年にしてもらい
今年の6月で任期を終了しますが、
とても気がかりな事があります。
それは生徒達です。
生徒達はこの1年で多くの事を吸収してくれました。
私が思っていた以上に学び、感じ取ってくれています。
それを後10年続けることが出来たら、
きっと何か良い方向に進めたように思いますが、
私がまだまだそれだけの中身が無い事、
それから自分自身、やりたい事、やるべき事を見つけたことで、
生徒達の力に今はなれないというこの歯がゆさに、
毎日頭を悩ませています。
ただこのまま残ってしまったら私は中身が空っぽになり、
生徒達の力になるどころか足を引っ張ってしまう、
そんな気もするのです。
これは私の個人的、勝手な考えかもしれません。
しかし、私は昨年来た時よりも
はるかにここの子供達をとても大切に思っていますし、
何より自分自身やり甲斐を感じました。
私は6月以降は日本、ドイツの生活に戻り、
ゆったりと自分の勉強に腰をすえて色々なものに挑戦するつもりです。
でもその中で1、2度はこの地に客演教授として足を運び、
彼らと音楽をしたいと思っています。
1年というのはとても早く感じます。
たった1年でなんという違いを生むのでしょうか。
これこそ、生きていたからこそです。
私が生きてこれるのも
こうして皆様に支えていただいているからこそです。
心より御礼を申し上げます。
パレスティナ音楽奮闘日記 2月4日
こちらに着てから既に2週目を迎えています。
来週にはコンサートが予定されており、
私は突然の予定にあたふたしながらも指導に明け暮れていました。
そんな中、神様からのプレゼントかもしれません・・・雪が降りました。
しかも2日間も続けて降りました。
雪が降る前の日は物凄い強風になり、学校が休みになりました。
そして次の日から二日間続けて雪が降ったので
学校だけではなくお店までお休みでした。
生徒達に後から聞くとこんなに雪が降ることは
めずらしかったようでした。
雪が解けてリフレッシュした体で学校へ。
久しぶりに生徒達に会えるのが嬉しくて、
私もいつもより長くレッスンや、
新しいスケジュールに戸惑いながらも、
生徒達の「真也―!」と部屋にやってくる姿に
癒されながら日々取り組んでいます。
しかし、ヴィザが無い私にとっては海外に
2,3ヶ月居るというのはとても難しい状況なのですが、
とにかく任期終了までの約4ヶ月間精一杯音楽と、
生徒達と向かい合いたいと思います。
また、これから6月まで週に1回の割合で
音楽奮闘日記を書いていければと思います。
皆様に御笑覧頂ければ幸いに思います。
パレスティナ音楽奮闘日記 11月5日
昨日私の生徒達のコンサートがあった。
出演したのは16名、
教えている生徒達の半分くらいではあるが、
皆本当に一生懸命演奏して、演奏が終わると良い笑顔をくれた。
私は全員の演奏が終わると本当に暖かい気持ちになったし、
涙が出そうになったが
生徒達がいるし、同僚達がいるのでこらえた。
生徒達の中には何かの事情で来れなかった生徒もいた。
親の都合か、何かしらあるのだとは思うのだが残念だった。
一番小さな子供で6歳の子がいたが、
西洋音楽も始めて、ヴァイオリンも初めて触る子だった。
それから今回は協奏曲を弾く子達は、
私が弦楽四重奏版にピアノ伴奏譜から書き直して上げて演奏をした。
生徒達はさることながら親達も弦楽器の響きに喜んでくれた。
そんな沢山の笑顔に私は、音楽をやる意味を感じた。
そうしてやはり音楽には国境が無い事を確信した。
私はこの2ヶ月間、精一杯向かい合っていたし、
兎に角学校に通いつめていた。
そうして約束された勤務時間以上に働いていた。
でも他の教授の方々の中には
それを快く思っていない方達もいた。
他にも色々な話を耳にしたこともあった。
それでも私は生徒の為に動いていた。
そんな中昨日のコンサートで生徒達から教わったのだ。
「心から何かをやる」という事が
やはり正しい事だ、という事を。
そうすればきっと何かが伝わる。
私は帰ってきてからさっそくパートナーに電話した。
話を始めたとたんに涙が止まらなかった。
その涙は色々な物が有るが何よりも
「ここに来て子供達に音楽を伝える事が出来てよかった」
これだった。
話し終わった後練習がしたくなった、
演奏がしたくなった、それから音楽がもっと好きになった。
私は本当に子供達の姿に心から感動した。
私は日本でも、アメリカでも、本当に生徒達に恵まれている。
それは音楽に関わらず、
日本で英語を教えていたときもそうだったが、
いつも支えられている。
私の生徒さんたちに心から感謝している。
「ありがとう」
パレスティナ音楽奮闘日記 10月29日
10月もそろそろ終わろうとしている。
私もこの地に来て2ヶ月が経とうとしている。
色々な事が有った。
毎日の時間の流れがとても速く感じる。
そんな中私はこちらで
ボランティア活動をされている勇気があり、
心が有る素晴らしい日本女性の方々にお逢いした。
その方々のお話を伺いながら、
子供達に音楽を通じて何が伝えられるかなど、
色々考えさせられる貴重な機会となった。
それからイスラエル日本大使ご夫妻にもお逢いをした。
お忙しい中であった為、お話は殆ど出来なかったが、
女性達の働いている所を見学されて、
支援されている姿には、私も多くを学んだ。
私も頑張らねば、と心新たにさせて頂いた週だった。
来週の日曜日には
私の生徒達だけで開かれるコンサートがある。
総勢15人ほどが出る予定であるが、
そんな中には人前で、
しかもソロで演奏するのは初めてだという生徒もいる。
私も緊張をするであろうが、
精一杯生徒とこの1週間向き合い、
最大限の努力とサポートをしようと思う。
生徒達の為に伴奏をピアノ伴奏だけではなく、
私達講師陣が弦楽四重奏を組む。
私がピアノ伴奏譜を弦楽四重奏用に編曲をしてたのである。
そうすれば生徒達は弦楽の伴奏で演奏する機会が与えられるし、
より多くの事を学べるであろう。
その他には生徒達で組んだ室内楽も披露する。
多くの演奏の可能性を使って、
刺激し合って欲しいと心から思う。
11月8日の朝に発つのであるが、
私は7日の夜最後の最後まで教える。
次のコンサートは2月である。
パレスティナ音楽奮闘日記 10月22日
この音楽奮闘日記も後2回書いて
しばらくおやすみさせていただく。
というのも私は11月8日より日本に行き、
日本でしばらく音楽奮闘するからである。
私がこちらにいない間は、
イギリスよりヴァイオリンの先生が来て、指導に当たってくれる。
彼は昨年までこちらにいたヴァイオリンの先生で、
素晴らしい先生である。
そうして彼こそが、
私をここの教授として推薦した人でも有る。
私が学校側と色々やり取りをしている時も、
彼が中間に入り色々とやり取りをしてくれた。
そうして私が年に3回日本、もしくはドイツに
行かなければならないという条件を提示したときに
「私が真也の代わりにこちらに入るから」と名乗り出てくれた。
そうして学校側も了解をして私にオファーを送り続けた、
という事なのだ。
その彼が、
来週から私と一緒に学生達に会いレッスンを見て、
二人で私が居ない間の指導内容や曲目を一緒に決めて、
私は再来週の木曜日にはここを離れる。
今週は学生のための発表会を来週に控えながらの週なので、
学生達もラストスパートにかかっている。
そんな中、
何人かの学生達は先週のレッスンが約3週間ぶりだった。
というのも室内楽の集中講義や
「ラマダン」の影響、
それから5日間の休みでレッスンがつぶれたのだ。
運悪くそれに全て入ってしまったが
学生がの私の担当している中に4人いる。
彼らは先週のレッスンで必死にやり、
追い付こうと、私も追いつかせようと
1時間半のレッスンをしたり、
週に2回来させたりと、私もさすがに疲労困憊だった。
金曜日はそれに加えて室内楽の指導が2つ有り、
各2時間の指導に私は、体を使い、歌い、学生達に音楽を伝える。
時にはヴァイオリン、ヴィオラ、ピアノ、
といったように持ち替えながら、
室内楽をあまり知らない学生に、
音を通して必死に向き合た。
家に帰宅した後私は食欲もあまりなく、寝入ってしまった。
次の日の朝、
土曜日であるがのんびりと練習して、
素晴らしい音楽に接した。
ベートーベンのヴァイオリン協奏曲である。
私は久しぶりに2楽章を弓の練習の為に取り上げて練習をしていた。
あまりにも美しいメロディーに
昨日までの疲れや、色々なストレスが飛んでいった。
そうして「やっぱり音楽が大好きなんだな」と改めて感じた。
こういう素敵な音楽、
あくまでも自分が素敵、美しいと信じている音楽を、
ここの学生達に聴いてもらいたい。
その為に自分も精進しなくては、
と心新に学校へ行く準備をして、
白から灰色になりつつある靴を履き
(靴底も剥れつつある・・・)、
私はマンションを後にして学校へ音楽をしに向かった。
パレスティナ音楽奮闘日記 10月15日
今週の金曜日よりパレスティナでは休日が始まり、
ラマダンというものが終わり、
普通の生活になるのである。
我々仏教徒や、キリスト教徒には関係のないことなのであるが、
イスラム教徒の方々にとっては、
金曜日から普通にご飯が食べれるようになるのである。
その前は、朝4時くらいから夜の6時過ぎまで
水さえも飲めないのである。
ただし、それは神様のためにやっている事ではなくて、
弱い人々、貧しい人々の気持ち、辛さを理解し合い、
皆が同じ位置に立つためにやっている事だという。
そうして、自分よりも貧しい人には
食事や果物などを分け与え、時にはお金も上げてしまうという。
少々疑問も残る習慣ではあるが人のために、
という気持ちは凄く分かる。
だから我々もイスラムの生徒がいたり、
イスラム教徒の人々の前では水を飲んだり、
食を口にしたりするのを控えていた。
生徒達も普通の生活に戻りレッスンを始め、
11月の学生のためにコンサートにむけて練習を開始した。
何人かの生徒達はもう曲が弾けるようになっているので、
余裕を持ってステージに望めそうである。
生徒達も自信が有るものを弾くのが嬉しいらしく、
いつも以上に練習をしてきていて、
私も教え甲斐が有る。
私も沢山のエネルギーを貰った。
そんな中、一歩外へ出ると、違う世界が広がる。
音楽大学の中では、
西洋楽器を手にして演奏法を学び、
優雅な空気がある。
でも外は全然違う。
手にはおもちゃの銃や爆弾に、
子供達は「戦争ごっこ」をしている。
日本にも「ちゃんばらごっこ」というものがあるがそれに近い。
その時の子供達の目が変わるのだ。
確実に人を狙い、集中しているのが良く分かる。
おもちゃとは言え、このパレスティナで見ると
余りにもリアルで私は恐ろしくなる。
そうして時には
「戦争ごっこ」ではない本物の「戦争」を目撃する。
そうして一夜明けて音大へ行くと、
またそこには優雅な空気がある。
そうして夜、家に帰る途中ではまた
「戦争ごっこ」に夢中な子供達、
そうしてチェックポイントではこの国の現実が待っている。
今の日本では「ちゃんばらごっこ」をあまり見なくなった。
小学校の生徒達は何をして遊ぶか、
殆どが「ゲーム」であろう。
なぜ子供達は「戦争ごっこ」をしたがるのか、
特にこの地にはそれが多く見られる。
そうして銃を手にして
まるで本物の軍隊さんのように変身している子もいる。
しかも誇らしく。
戦争を知らない私達にとって、
今「ちゃんばらごっこ」や「戦争ごっこ」が
日本に見えなくなったのが良く分かり、
なぜこの地の子供達が、それを今しているのかが、
何だか分かったような気がする。
子供達の姿が、
今この地の抱えている問題であったり、
姿の現われなんだ、と感じた。
「子供は大人の背中を見て育つ」というが、まさしくそうだと感じた。
だから自分自身も学校の中では
兎に角音楽に真っ直ぐ、音楽の為にいたいと思った。
そうしてそういう姿を生徒にみて貰って、
彼らが音楽をするときはその姿をまねて貰いたいと思った。
これも一つの指導方法だと私は思った。
パレスティナ音楽奮闘日記 10月7日
本日(日曜日)でスペイン音楽室内楽講習会が終わった。
波乱万丈の一週間であった。
時期的にとてもタイミングが悪かったという事。
それからなにより準備不足であった。
先生方が殆どこの講習会の事を知らなかった。
だから先生方は生徒のレッスンで
講習会様の曲をみて上げられていなかった。
連絡が早い段階から取れておらず
生徒のスケジュールと合っていなかった。などなど、
本当に私は一週間で一年分のストレスを感じた、
といっても過言ではない。
生徒達はそれでも一生懸命取り組み、
彼らに今出来る精一杯の努力をしてくれたと思う。
そのお陰で日曜日に有ったコンサートでは
何とか演奏も止まらず全て無事に終わった。
私は観客として聞く予定が
案の定助っ人としてコンサートに参加した。
演奏をしていないときはステージ設定、譜捲りなどを担当した。
コンサートがスムーズに進むように努力をした。
ある時は譜めくりの時に演奏が止まりそうになり、
横で一緒に数えてあげたり、
何とか演奏を起動に載せたり、
生徒達があまりの緊張で
呼吸を忘れているかのように見えたので
わざとオーバーに呼吸してあげたりと
兎に角私は出来るだけ生徒の役に立とうと努力をした。
生徒達は演奏し終わった後
ステージから降りるとき私の顔をみる。
そうして「サンキュー」と言ってくれる。
そうして笑顔をくれる、
時には苦笑いだったりする。
生徒達は「もっと時間があったら・・・」ととても悔やんでいたし、
私も学校との連絡を
密にとっていれば良かったのかなと反省をしながら、
今度皆を舞台に上げるときは胸をもっと張れる様に、
指導していければ良いな、と決意を新にした。
きっと生徒達も色々学んだと思う。
残念なのは、
もっとスペインの独特のリズムや歴史を
生徒達が学べていたらよかったな、と思う。
講義に私は殆ど出ていたが、
やっていたのは如何に合わせるか、
音程の事だったり、
スペイン音楽のことというよりは
私達でも教えられる事だったので
逆にスペインからわざわざ来ているのに、
もったいないなと感じた。
これから、学校、生徒にとって
課題が沢山残る体験となったに違いない。
さて10月も二週目に突入。
今週は休みも有るが私はフィンランドである。
それが終われば後二週間で日本である。
あわただしい日々が続く。
パレスティナ音楽奮闘日記 10月1日
9月も今日で終わろうとしている。
この1ヶ月は学校の内情、生徒達の内情、
それから国の情勢を改めて客観的に見えた1ヶ月であった。
指導も起動に乗り出してきている。
10月3日からスペイン音楽講習会と題して
スペインから二人の音楽家を招いての集中室内楽講習会が開催される。
コンサートは8日の日曜日である。
その準備で学校、生徒、それから私達教授陣はてんてこまいなのである。
その理由として次の事があげられる。
1:二人の音楽家を招いて講習会をする部屋がない。
2:毎日3時から8時までの講習会に選ばれた生徒達のスケジ
ュール調整がほぼ不可能。
3:指定された曲が生徒達にはあまりに難易度が高すぎる。
4:何人かの生徒がベテラハムマに入れない生徒も居る事が発覚。
等等、あげだしたらきりがないほどの問題が出てきた、
それでもスペインの音楽家はやってくる。
そうして毎日の講習会に意欲を燃やしているとの事。
これはとても良い企画で、とても貴重なものだとは思うし、
感謝をしなければならない。
がしかし今の時期夏休みでもなく、
年度始めである私達にとって、
この音楽講習会をやりくりする事はとても大変なのである。
私が居るベテラハム校は教室の数が10無いのである。
その中で120名ほどの生徒が行き来し、
時間差でレッスンをしていくのである。
その中で2つのしかもピアノが有る部屋を
用意しろというのはとても大変な事なのだ。
この講習会の為にレッスンをキャンセルする事は
他の生徒にとってフェアではない。
それに加えてここの生徒達は
2日に一回くらいの割合でテストが有る。
しかも高校最後になると
「国家試験」のようなものが有り
それをクリアーしなければ高校を卒業できないという。
しかもそのテストが毎日有るという。
そんな中スペインからの音楽家は毎日講習会をすると言う。
その日程を変えるように連絡をとっても聞く耳持たず。
それに加えて生徒の負担を(曲数)減らして欲しい、
というこちらの意向もあまり受け入れてもらえず、
私が学校側に9曲あったうち、
5曲にするようにと主張して、
その案を渋々スペインの音楽家達に理解してもらったという形である。
普通の音楽大学の学生と違う事を彼らは解っていないのだ。
きっと嫌でも来ればわかって貰えると思う。
どんなに無理難題を言っているかという事が。
それから彼らに「学生達と一緒に演奏してもらいたい」
と私は申し入れをした。
ただでさえ演奏できる生徒が少ないうえに
色々な問題で参加できない生徒も居る、
そうすると空席が出来る、
そこでそのパートを彼等に演奏してもらい、
その上生徒達は実際の演奏でさらに吸収できると思ったから。
が、しかしその考えもあっさりこういわれた。
「一緒に演奏はしない、それでは教えられない」という。
私は来週精一杯生徒達のサポートをするが
色々な面で疑問が残る講習会になりそうだ。
今から気が重たい。
パレスティナ音楽奮闘日記 9月23日
今この地に来て既に4週目を迎える。
この学校では、9月26日から正式な年度始めとなるが、
その間全ての学生と言葉を交わしながら、レッスンを行った。
学生達はやる気に満ちているので、
それに応えられる指導を行いたい。
新しい先生方で、体制、プログラム、試験内容などを
3週間かけて話し合ってきた。
最近の教授会の議題では、
「3つに分かれている学校と、教材などの材料が少ない中で、
いかに確実なステップアップを図るか」
ということが取り上げられた。
私は会議の中で、
「3つの学校にはそれぞれ先生方がいるのだから、
しっかり必要事項を長い時間をかけて、
こつこつと積み重ね、
少しずつステップアップすることが必要であること、
そして今ある曲で何を教えるのか、
何をどう伝えるのかという点を教える側が把握することが兎に角大切だ」
ということを主張した。
そう主張した私は、
スコアーとパート譜に、
弦楽器については弓の使い方・指番号、
管楽器についてはブレスの位置、
それから音色に至るまで書き込み、
「良い音楽を作りましょう」と先生方と握手を交わした。
これからが本当の勝負である。
精一杯試行錯誤を続けながら、
先生方そして学生達と力を合わせて、
パレスティナだから出来る音楽(音楽教育)を
作りたいと心から思う。
パレスティナ音楽奮闘日記 9月17日
今あっという間に2週間が過ぎ、本格的な指導を行っている。
昨日までの一週間は、
40人近くの学生(ヴァイオリン、ヴィオラ、ピアノ)の演奏を聴き、
自分が指導する学生や、
オーケストラの席順、室内楽の割り当て決めた。
私が一週間に行う指導スケジュールは、次の通りである。
1;ベテラハム校のヴァイオリン、ヴィオラの指導(23人)
2;ベテラハム校の室内楽の指導(3グループ)
3;ベテラハム校の弦楽オーケストラの指導
4;音楽院オーケストラ、ユースオーケストラの指揮
それらに加え、
合唱の指導、
ピアノの指導(先生が居なくなってしまったため)
が追加される事になった。
この学校の先生方の平均労働時間は週20時間、
それに対し私は週28時間指導を行う。
日本人の労働時間に比べれば時間に余裕があるのだが、
この国の情勢や学生への効果的な指導を練っていると、
時間的な余裕はあまりない。
私が日本、アメリカで教えていたとき、
もしくは自分が学生の頃は、
在学中に如何に多くの曲目を演奏できるか、
レッスンを受けられるか、
というのが勝負だったような気がするし、
教えている立場的には多くの曲を弾かせてあげたい、
と思うのだが、
ここの学生には多くの課題を与えると混乱するので、
我々指導する側が慎重に選曲し、
学生と一緒に練習する過程で
効果的なアドヴァイスを行うよう心がけている。
また、選曲が容易でない理由として、
学校に楽譜が豊富にあるわけでもなく、
取り寄せるにも半年の年月が必要になってしまうのである。
日本で楽譜を入手する容易さを考えると、
どんなに恵まれている環境にあるか、改めて認識する。
また、教授陣の演奏会も企画され
私はその殆どに出演するが
色々な価値観を持っている先生と演奏することで、
多くを学ばせてもらっている毎日である。
パレスティナ音楽奮闘日記 9月10日
今前回パレスティナに死を覚悟しながらも、
この地に足を運び音楽教育に力を注いだ。
パレスティナに入国すると、
学校のスタッフが迎えに来てくれていた。
懐かしさのあまり抱き合い
「よく来てくれた、よく決断してくれたね」
と涙を流し喜んでくれた。
私は、コンサートやドレスデン、フィンランドでの活動、
そして何よりもパレスティナの現状から、
学校側のオファーを断り続けてきたのである。
それでも、熱いオファーをもらい、
私も次の点を学校側に了承してもらうことで
再び決断したのである。
1:職場はべテラハム1箇所だけにすること
2:室内楽を強化すること
3:オーケストラの強化
4:一年に3回日本、ドイツに戻ること
今回私は、客員教授としてではなく、
弦楽科教授としてベテラハム校に席を置き、
ヴァイオリン、ヴィオラ指導、室内楽、弦楽オーケストラ、
そしてパレスティナユースオーケストラ音楽監督を兼任している。
タイムスケジュールは、
毎日午後2時から7時半まで、
金曜日に限っては
午前中から午後7時半まで授業を行う。
私は、ベテラハム一箇所だけでの教授活動だが、
他の先生はエルサレム校やラマーラ校にも
行かなければならないので、とても大変である。
ただし、パレスティナ人には「労働権」がない。
よって、パレスティナ人が経営する学校にも
「労働権」はなく、
そこで教授活動する人間にも「労働権」がないのである。
だから私も、「音楽のボランティア」という理由で入国し、
形式的には「音楽のボランティア」
として活動していることになっている。
日本人が日本にいれば、
一般の人がそれ程考えることのない
「労働権」という権利の重要性を、
この地では実感する。
やはり特殊な問題が色々と存在し、
パレスティナ人が「労働権」を獲得するまでに
はまだ時間がかかるであろう。
だから、
この国では三ヶ月に一度ヴィザの更新のために、
出国し再度入国するといった経緯が必要となる。
そのため私は、三ヶ月以内に
日本や他国に行く予定を立てるようにしている。
今回と前回で大きく違うのは
「死」に対して恐怖がないということである。
これは大きい違いで多分私の親、親友達も
前回とは何か違う気持ちで
私を送り出してくれたのではないかと思う。
その分、
今ある使命に真正面から向き合って
精一杯音楽をしていきたいと心から思う。
皆さん応援宜しくお願い致します。
イスラエルでの予定(9,10,11月)
9月15日:阿部真也室内楽コンサート(ラマーラ)
10月1週目:生徒と共に室内楽コンサート(ベテラハム)
10月3週目:スペインからの学生を迎えての
室内楽コンサート(ベテラハム)
11月1週目:ドバイにてオーケストラコンサート
同じくドバイにて阿部真也と生徒達による室内楽コンサート
11月15日:日本へ

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